blog non grata

人生どうでも飯田橋

仮眠のように

 2014年の春に大学に入学してから、「生活リズム」というものが今の今までない。明け方に寝て昼間に起きるということが多い気がするけれど、徹夜して昼間ずっと寝てたり、ふつうに夜早く寝て朝早く起きることもある。35時間くらいぶっ通しで起きていることもあるし、それと同じ時間くらいぶっ通しで寝ていることもある。そもそも京都にいたときは寝る場所ですら一定ではなかった。部屋の自分のベッドで寝る回数の方が少なかったと思う。

 同じように曜日感覚もない。大学の授業といっても適当に休んでばかりだった。気まぐれに3日連続で3コマ出たり(それが普通なのかもしれないが)、かと思うと3週間くらい引きこもってたりしていた。むしろ所属している団体の“お仕事”みたいなものが土日に多かったし、土日はバイトの宿日直もあったので、そっちの方が憂鬱だった気がする。「平日5日疲れたから土日が楽しい」みたいな感覚は高校1年生くらいを最後に味わっていないと思う。(高2から浪人期は土日とか関係なくずっと勉強だった)

 そもそも単位時間で生活が区切られることに向いていない。日々何かこなさなきゃいけないことがある、ということが苦手だ。仕事も家事もそうだし、食事も睡眠もそう。今書いてて思ったけど、仮眠以外の睡眠は、決まった時間にこなさなければならないという意味で「眠事」とでもいったほうがいい。「眠事」は苦手なので、あらゆる睡眠を仮眠のようにとっている。同じように仕事やら家事やらも全て仮眠のように「なんとなく」やりたい。すべて「なんとなく」がいい。

 

ミスドクラブ・ミュージックステーション

ミスドWifiはないけどコンセントは付いているので、作業の有限化という意味で素晴らしいのだが、菅田将暉の謎のミスドエピソードの朗読がけっこう不快なのが惜しい。店内BGMもシカゴやらジャーニーやらホール&オーツやらベストヒットUSAみたいな選曲で最悪。ミスドクラブ・ミュージックステーションということらしい。全体的に押し付けがましい。マクドナルドのかたいイスよりよっぽど環境管理型権力を感じる。すぐに退店してしまった。 

三日月型の特別チケット

3日くらい前、匿名ラジオでARuFaがニャースのパーティを歌ってるのを聴いたら、あまりの不意打ちにめちゃくちゃツボに入ってしまった。呼吸困難に陥ってしまったので、それ以降は聴けていない。今も思い出し笑いが止まらなくて、さっきもシャワー浴びながら爆笑してしまった。疲れているのかもしれない。

おわり

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リサイクル

マックで「遊んだあとはリサイクル♪お片付けのチャンス♪」みたいな曲が流れている。こどものときは自分の家のおもちゃを誰かに明け渡すなんてこれ以上のない屈辱で、悲しみで途方に暮れていたと思うけれど、そんな屈辱的な行為をなんとなくポップな曲で促す怖さがある。ニコニコしながら自分の権利を収奪してくる人間に対する警戒感は、妥協の許せないこどもの頃の方が大きかったと思う。ミニマリズムなんて大人になってからでいい。可能な限り好きなもので溢れてるくらいがいい。いつか自然と他の誰かに渡るべきときがくるから。

Tender Buttons

最近Broadcastというバンドをよく聴く。調べてみるともう10年以上前にボーカルの女性は亡くなっていた。歌ってる人が既にこの世にいないという事実を受けると、また違うものに聴こえてくる。フィッシュマンズ佐藤伸治が実はもう死んでいた、ということを知ったときの感覚と似ている。エリオットスミスもそうかな。ちなみに志村正彦は生前を知っているので少し違う。

物悲しげに聴こえてた音楽が、急にフワフワとしてとらえどころのない音楽に聞こえる。悲しみとかそういう感情を超越して、ただそこに音の波が浮いているだけのような感じがする。

 

障害

  運動会の競技種目のひとつに障害物競走というのがある。レースの所々に障害物があり、それをクリアしていくやつ。その意味でいう「障害」と、いわゆる障害者の「障害」は、意味は同じはずなのに、主客が入れ替わっている。障害者は障害物競走で言うのであれば、ランナーの方で、社会が障害物だ。障害者に気を使って「障がい者」というポリコレ表現が使われたりするが、これは本当は障害者に気を使っているのではなく、障害をクリアできていない社会に気を使っているだけではないか。障害を抱えているのは社会であるということを見逃してしまう。社会こそがこの問題を解決しなければならないということを忘れてしまう。

 障害者といわゆる健常者というものは明確に区分されるわけでもない。人はみなどこか障害者の要素がある。たまたまその障害が今の科学で対処可能で、とてもマジョリティのものなので、社会で解決されているに過ぎない。たとえば僕は厚生労働省の定義において、障害者には該当しないが、非常に眼が悪く、眼鏡やコンタクトレンズがなければ、かなり近くの大きな文字も判別ができない。たまたま同じように目が悪い人間が多く(つまり眼鏡やコンタクトレンズを製造・販売することがビジネスになる)、現代科学で解決可能な種類の障害であったために、不自由なく生活できているに過ぎない。

 二足歩行で、耳が聞こえて、普通に言葉が話せる人間が、なんとなく標準であって、それ以外の手がなかったり足がなかったり、聴力がなかったり、自分の考えてることをうまく言語化できない人間がなんとなく障害であるとされているが、そもそもこれは単なるマジョリティとマイノリティの差でしかない。もしも人口の99.9%の足がなく、たまたま足がある人が0.1%しかいない社会だったら、誰も足がないことを「障害」とは言わない。むしろ沢山の車椅子が発明されているだろうし、世界は車社会ではなく車椅子社会になっていてもおかしくない。高速道路でビュンビュン走っているのは車ではなく車椅子かもしれない。

 コラムニストである伊是名夏子氏が、JRで車いすは乗車拒否されたということがニュースになっていた。(https://www.j-cast.com/2021/04/05408842.html?p=all

 事前にJRに伝達ができていなかったので、その点で女性に瑕疵があり、責められるべきなのかもしれない。いやいや。仮にそうだとして、問題なのは社会だ。そもそもなぜ伝達というコストをわざわざ女性が払わねばならない。補助を使わずに歩ける僕ら多くの人間はわざわざ駅に電話して「2時間後に駅に行きますので」なんて当然言う必要はない。ふらっと出かけてすぐに電車に乗ることができる。たまたまマジョリティの身体のつくりをしているおかげで。いったん乗車を拒否せざるを得なかった末端の労働者を責めるのも、車椅子の女性を責めるのも甚だ見当違いで、克服できない社会構造に問題がある。エレベーターが少なく、車椅子専用ロードがない、あるいは階段を歩くことのできる車椅子がない社会に問題がある。車椅子がロボットみたいに変形してときに歩き、ときにローラーで動くことができればなんの問題もない。

    もちろん現状の科学技術や社会のしくみ、予算を考えたらこんなことは言ってられない。ではどうすればいいのかと言われると分からない。僕の言っていることは現実とは大きく乖離した単なる妄言であるし、現実の社会をより便利にすることに直接寄与しない。少しずつ良くするという意味で、現実的な解決案を模索するというアプローチは別で必要だろう。しかし、そもそも障害を抱えているのは社会の方なんだ、という認識を忘れないためにあえて妄言のようなものを書いた。

  

生殖の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

生殖の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

  • 作者:小泉 義之
  • 発売日: 2003/05/14
  • メディア: 単行本
 

自動車ではなく車椅子で埋められている社会というアイデア小泉義之『生殖の哲学』から。まじでオモロイ。