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人生どうでも飯田橋

うるうびと

 3月1日になった。2019年の地球には2月29日は訪れない。4年に1度(400年に97度)、所謂うるう年にしか訪れないこの日に、生まれた人がいる。それが『うるうびと』だ。
 

 毎年、この時期になると思い出す。小林賢太郎POTSUNEN)のライブ『SPOT』の中のコントの一つだ。


ラーメンズ 小林賢太郎 【うるうびと】

 
 うるうびとは、「「『うるう年のうるう日に生まれた人たちのお誕生会』にはずれた人たちのお誕生会」にはずれた人たちのお誕生日会」からはずれてしまう。クラスで二人三脚の組を作るといつも余る。組体操でも余るから一人だけ「体操」になってしまう。クリスマスのプレゼント交換でもなぜか自分だけプレゼントがもらえない。何をしても余ってしまう、うるうびと。
 

 そんなうるうびと、同じ2月29日生まれの子に恋をする。人と変わっているこというのは、余っているということじゃないよ、そういう優しい言葉をかけてくれる。でもそんな彼女もうるうびとの知らないところで「とても普通の男」と結婚してしまう。
 

 結局余るのは僕だ。うるうびとは選ばれたんじゃない、選ばれなかったんだ。僕は「余分」なんだ。そして「卑屈が屈折に変わる瞬間」が訪れる。「誰かが一人いなくなれば、僕は余らなくなるじゃないか」そうして誰かを陥れようと落とし穴を掘り始める。しかし深く掘り過ぎて自分が出られなくなってしまった。ただ、うるうびとは、そんなひとりぼっちの穴の中にいることに居心地のよさを感じてくる。

 


 僕も「うるうびと」だ。いや誕生日は2月29日ではない。しかし「余り物」である。1994年生まれの人たちは、「普通」にいけば、4月から社会人3年目である。一方僕は未だに大学生。それも学部生だ。そして、残念ながら本日3月1日をもって、就職活動が「解禁」された。しかし僕は何も準備していない。みんなが必死こいてESを書いている中、呑気につまらんブログを書いていることからも分かろう。
 

 だからこそ、この「うるうびと」のコントは胸にくるものがある。自らに投影してしまう。否、そこまで投影していないか。どっちだよ。でも「どうせ自分なんか余り物だよ」って卑屈になることは、よくある。そしてそんな自分が嫌になる。余り物だからではない、「自分なんか余り物だよ」と卑屈になってしまうからである。寝たら忘れちゃうけど。


 卑屈が屈折にならないようにしよう。