blog non grata

人生どうでも飯田橋

散歩のための散歩

 新型コロナウイルスとやらが世界中で流行し始めて、早くも一年以上が経過した。「早くも」と言ったものの、もはや時間感覚がよくわからなくなっている。クルーズ船、志村けん逝去、緊急事態宣言、Black Lives Matter、Go Toキャンペーン、周庭の逮捕、菅政権の誕生、バイデン大統領就任...etc。コロナ禍で起こったことの時系列も曖昧になってしまった。そして、コロナよりも前との時間的な距離感がわからなくなってきている。マスクをせずにみんなで密になって話すようなことが当たり前だった、わずか一年と少し前のことが、はるか昔のことのように感じられる。

 


     話は変わるが、5年半ほど前、大学2回生の秋に、僕の親友が亡くなった。中高から浪人時代の予備校、さらに大学と、すべて同じ唯一の友人だった。同世代の友人を亡くすという経験は初めてのことで、とても受け入れ難く、この世のこととは思えないくらいに辛かった。しかし世界はそんなこととは全く関係がなく動いていた。僕の筆舌に尽くし難いほどの辛さは、彼のことを知らない人たちには当然ながら共有されない。そのことに寂しさや儚さを感じ、輪をかけて辛かった。しかし、一方でその無関心さ(知らないのだから当然であるが)にとても救われた。悲しみに暮れる僕とは完全に別の時間軸でものが動いていて、完全に違う多様なそれぞれの人生が垣間見えたことにほっとした部分がある。


     コロナ禍で均質化された世界にはこのような救いがない。人々は必要で緊急のものしか許されず、行動するには「真っ当な」理由が求められる状況では、生活の多様さは失われてしまっている。外出する時間は減り、外出するにしても、基本的に人と話すことは少なくなり、新しく人と出会う機会はほとんどなくなった。そしてこの状況は世界各地で同じだ。世界中の誰もがコロナに順応せざるを得ない状況になっていて、コロナ禍という同じ時間軸で生活を送っている。全世界がかつてないほど「一体化」し、日々のダイナミズムは失われ、皆が一様にコロナのことを気にしている。コロナ禍という共通の時間軸を持っている。のっぺりとして奥行きの失われた時間感覚は、こうした社会の単純化が原因だと思う。


     こののっぺりとした単純な社会から脱却するには、不要不急で、無意味で、非本質的なものの復活以外にはないだろう。それこそが人々の多様性を担保するものだからだ。あえていうのであれば、そういったものこそ人間の本質である。人は自由で、多様で、それぞれの理屈で動いているということを思い出し、行動の理由を他人にあるいは自分に求めず、もっと適当に生きることが大切だと思う。

 

     いま、善と悪、本質的なものと本質的でないものとの線引きが「不要不急」という名の下でなされている。1回目の緊急事態宣言の時と比較すれば、2回目の現在の緊急事態宣言は、学校での授業は行われるようになったし、様々な経済活動が前回よりは行われている。しかし、これは「緊急で必要なもの」の許容範囲が拡大しただけで、依然としてその線引きは残る。授業はOKだけど、サークル活動はダメ。仕事での出張はOKだけど、観光はダメ。スポーツ観戦やアート鑑賞はOKだけど、夜の街を享楽するのはダメ。セックスワーカーへの補償がスムーズに行われなかったのもまさにこの線引きよるものだろう。何がOKで、何がダメかはその時の社会の環境やノリに左右され、許容範囲が広がったり狭まったりするが、そもそもそういった線引きを決定することは不可能である。 これらは全て、感染拡大という観点からみれば有害であるが、一方でそれぞれに有意義な面もある。もちろん夜の街で遊ぶことにも。そういう意味で、全ては両義性を孕んでおり、デリダ的に言えば「ファルマコン」なのだ。


     1回目の緊急事態宣言のときから、感染症対策を行なった上で散歩することは気分転換の観点から推奨されていた。端的にいってこれは散歩への冒涜だと思う。散歩という無意味で、非生産的で、非本質的な活動が、「気分転換のため」「健康のため」というくだらない「本質的な」理由によって擁護されるべきではない。僕の大好きなミュージシャン、TOMOVSKYの「散歩のための散歩」という曲の一節を引用する。

気晴らしに散歩とか
そんな事を言っては
HEYHEY
散歩に失礼
意味なんかいらない
あっちゃいけない 

     力が抜けていてふざけていて最高の歌詞だ。散歩が、気晴らしという手段になったとき、すでに息苦しさが始まっている。散歩が気晴らしであるという態度は散歩に失礼であるとトモフは言う(歌う)。もっと自己目的的に、散歩そのものを楽しむ。散歩のために散歩をしようではないかということだ。もっと簡単に言えば遊び心を持つこと。本質をまじめ、非本質をふまじめとするのであれば、「まじめにふまじめ」というかいけつゾロリ的な態度である。


     GoToキャンペーンや緊急事態宣言の可否をめぐって、感染拡大の防止なのか経済活動なのか、という二項対立のもと様々な議論が行われている。それは、コロナに感染することによる死者と経済死の合計の最小はどれくらいの匙加減なのかといった、疫学や経済学における計算可能性を過信した、味気ない議論ばかりだ。(もちろんそういった議論も必要だと思うが。)僕は、先の投稿でも書いた通り、人々の自由な活動を制限する動きや同調圧力には反対の立場であるけれど、それは「不況により自殺者が増えるから自粛するべきではない」というようなことではない。僕はもっとラジカルに、疫学であろうと経済学であろうと、人々の動きを集団的にコントロールし最適化しようというあらゆる動きに反発する。自粛は経済活動だけではなく、非本質的で不要不急とされる社会活動がその対象となっており、社会活動は定性的なもので数値化はできない。数理モデルだけではそういった社会活動を守ることはできないし、そもそも俎上に載ることすらない。


     最後に真逆なことを言う。コロナ自体「ファルマコン」であり、コロナで良かったこともある。引きこもりでOKという価値観が生まれたことだ。実際、このコロナ禍の生活の方がむしろ快適であるという人も少なからずいるだろう。そもそも登校拒否や引きこもりが悪いことである、本来の姿ではない、という価値観は、(コロナ以前の)「人々は外出することが本質である」という価値観があったからこそだ。コロナ以前から、感染症の広がりを抑えることに貢献していた引きこもりの方々(僕も含まれる)は、敬服に値する。つまり、どんな形であれ本質と非本質を区別して線引きし、非本質を排除しようとする同調圧力に対して抵抗し、そのような対立軸を脱構築していくことが大切だと思う。