blog non grata

人生どうでも飯田橋

時計台占拠

 時計台に登ることが、「京大の自由の象徴」になった時点で僕の興味は無くなっていた。時計台占拠はダダだと思っていた。くだらない政治運動とは離れた芸術運動だと思っていた。いや、芸術ですらない無意味な遊びだと思っていた。わざわざ時計台に登るということに意味など見出したくなかった。時計台を登る程度のことが政治的意味を帯びている現状を嘆く他ない。残念ながら、今や多くの意味を孕んだ政治運動になっている。芸術ではなく政治運動になっている時点で、運動それ自体は目的ではなく手段だ。政治運動であるならば現実社会にコミットし、現実を変えるものでなければ意味がない。芸術運動であればそれ自体の美しさや面白さが問われるだろうが、政治運動であればただ結果のみが求められる。失敗は許されない。「失敗したが美しい政治運動だった」というものは存在しない。いくら信念が正しくても、手段が徹底されていなければだめだ。そういった意味で、今回の時計台占拠は、パリコミューンや全共闘と同様に単なる失敗でしかなかった。ただの政治かぶれのサブカル風の運動と変わらない。「学生の間にも意識が芽生えたので一定の効果があった」という月並みの勝利総括は虚無だ。本気で、この運動が自由な京大へと戻すことに寄与すると思っているとしたら、それはあまりに視野狭窄的だ。そんなの先の選挙で野党共闘が良かったと言っているのと変わらない。じゃあどうすればいいのか。そんなものは分からない。どうせ何をやっても無駄であり、なるようにしかならないという諦念が僕にはある。時計台登っただけで処分されるし、吉田寮もなくなるし、喫煙所もなくなるし、保健診療所もなくなるし、マスクは雰囲気で強要されるし、自由なサークル活動も戻らない。日本はそういう国だし日本の大学はそういうところだ。京大も例外ではない。これだから政治はいやだ。政治なんかよりも、その諦めの奥にある、政治性が無くなった無意味な芸術、いや芸術とも呼べないような無意味な営みがいちばん良い。