blog non grata

人生どうでも飯田橋

Venus

 年末年始は基本的にずっと家にいて、Netflixでいろいろと見たり、箱根駅伝を見たり、ただなんとなく過ごしていた。去年の年末は忘年会もなかった。特に実家にいる時は、両親に気も使うので、外で飲みに行って、ほろ酔いで帰ってくるみたいなことも気がひけるようになってきたのもある。実家にいるとフットワークが重くなって良くない。部屋で黙々と勉強する分にはその方がいいのかもしれないが。

 クイーンズ・ギャンビットというNetflixのドラマが面白かった。冷戦時代を舞台にチェスで活躍する女性の話。チェスのルールは良くわからないけど、面白くて一瞬で見終わってしまった。ヒカルの碁と同じで、ルールがわからなくても面白い。何か新しく興味を持つときって、初心者向けにもわかりやすいものを見るとかではなくて、交わされている言葉は何一つ理解できなくても、その人たちがすごい楽しそうに意味不明な言語を喋っている姿を見てるときだと思う。そういう観点が欠如しているものはとても多い気がする。興味を持てばこっちで勝手に調べる。情報を提供するのではなく、魅力を伝える—もっと言えば「伝える」という意識すらなくていい—ものが欲しい。情報伝達の効率性はどうでもいい。これはTEDとか昨今の短いYouTubeの悪口である。

 冷戦時代のアメリカ人女性が主人公で、周りは男ばかり。しかししょうもない恋愛話にはならない。相手の男性もみんな負けたら潔かった。嫌味を言うやつとか女のくせにみたいな言葉を残すやつは出てこない。特に1番の強敵であるラスボスのロシア人が堅物でいかにもという感じでかっこいい。ウォッカはコートの内ポケットに潜ませてる佇まい。

 チェスの大会のための渡航費などを援助する保護団体から、援助の引き換えに反共・反ソビエトの言葉を求められても頑なに固辞しているのも良かった。あえて政治的な描写は排しており、純粋なチェスを愛するもの同士、どのような国籍・性別であっても、チェスのもとではそんなものは関係がない、というのが美しかった。「スポーツ(音楽)に政治を持ち込むな」とよく言われるのはこういうことだろう。政治というのは、その言葉の定義上様々な対立を孕むものであるが(対立がなければそこに政治は存在しない)、走っている時、ボールを追いかけている時、演奏をしている時、チェスをしている時、少なくともそれに夢中になっている時だけは、ただそれに没頭していて、政治的対立を忘れられるのだ。もちろん終われば思い出すし、政治的主張はドシドシしていけばいい(反共も反・反共も政治的主張だし)と思うし、安易にノンポリに走るのを是としたくはないが、政治的でない瞬間があるというのが大事だと思う。最後の大会はモスクワで行われるのだが、モスクワのエンディングのシーンはそういう意味で非常に良かった。


www.youtube.com

 主人公は孤児院時代から薬物とアルコール中毒者でもあるというのがこの作品のもう一つの大きなテーマであるが、彼女がもっとも酒を飲みラリっている頃の、Shocking BlueのVenusを聴きながら踊り狂っているシーンが一番好きだった。深夜、自分も部屋で一緒になって踊ってしまった。