blog non grata

人生どうでも飯田橋

無意味という意味をもたない

 実務において何か情報を伝える場合以外の、広義の意味でのある種の文学性を孕む文章を書くとき、必要以上に修飾語をつけがちになる。このブログを含め、自分の文章を読んでいてもそう思うし、他の人のそういう趣旨で書かれた文章を読んでいてもそう思うことがある。村上春樹の影響だろうか。書き言葉であることを意識しすぎてしまうきらいがある。もっと力を抜いて、シンプルな文章を書きたい。ただ、これは「わかりやすい文章を書こう」というようなものではない。

 まず、なぜそんな小難しく冗長な文章を書くということを試みてしまうのだろうか。それはおそらく文学的な文章に無意味を見出したいからだ。「無意味を見出す」というのは変な言い回しだが、つまり、実務的な情報伝達というつまらない言語使用への反抗の意思として、必要性、すなわち意味をあえて排除したいということだ。過剰な修飾語は無意味であり、情報伝達という点からすれば寧ろ無い方がいい。しかしそれをあえてやってみる。情報伝達という制限された言語使用から脱却し、言語そのものを、文章を書く行為そのものを楽しみたい。そういう意味で、小難しい文章を書きたくなる。

 ではなぜ、無意味で「楽しい」はずの小難しい文章に違和感をもつのか。それは意味があるからだ。あえて上でも「そういう意味で」と書いたが、無意味を目指した小難しい文章は、書かれた時点ですでに「意味からの脱却」という新たな意味を持ってしまう。「情報伝達という目的を果たすための必要性を排除する」という「目的」を果たすための「必要性」が生まれる、と言ってもいい。

   ダダが「ダダイズム」と呼ばれることを嫌うのと同じだ。あらゆる「なんとかイズム」には意味がある。「なんとかイズム」と言っている時点でその中における固有の原理原則が生まれ、「なんとかイズム」と「なんとかイズム以外」の2つに区別される。しかし、ダダイズムはその原理原則を撤廃しようとする思想だ。トリスタン・ツァラは「ダダは原理原則には反対だ。原理原則が存在しない、という原理原則にも反対だ」と宣言した。この文章の中にも明白に矛盾が孕んでいるし、結局、こういう宣言という形式を伴う時点でそれは不可避的に原則的になるという点でも矛盾している。それでも原理原則をきらうツァラのこの姿勢は、どうしても不可避的に伴う原理原則に対して反抗しようとしたツァラの精一杯の足掻きであり、その姿勢がとても好きだ。これはメビウスの帯のように構造上致し方なく孕む矛盾であるからそれに抵抗するというのはほんとうに難しくどこかで折り合いをつける必要があるが、僕も常に意味に抵抗していきたい。抵抗という意味を持たないように。そうすることで自ずと力が抜けた冗長でない文章になるのかもしれない。