blog non grata

人生どうでも飯田橋

ミスドクラブ・ミュージックステーション

ミスドWifiはないけどコンセントは付いているので、作業の有限化という意味で素晴らしいのだが、菅田将暉の謎のミスドエピソードの朗読がけっこう不快なのが惜しい。店内BGMもシカゴやらジャーニーやらホール&オーツやらベストヒットUSAみたいな選曲で最悪。ミスドクラブ・ミュージックステーションということらしい。全体的に押し付けがましい。マクドナルドのかたいイスよりよっぽど環境管理型権力を感じる。すぐに退店してしまった。 

三日月型の特別チケット

3日くらい前、匿名ラジオでARuFaがニャースのパーティを歌ってるのを聴いたら、あまりの不意打ちにめちゃくちゃツボに入ってしまった。呼吸困難に陥ってしまったので、それ以降は聴けていない。今も思い出し笑いが止まらなくて、さっきもシャワー浴びながら爆笑してしまった。疲れているのかもしれない。

おわり

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リサイクル

マックで「遊んだあとはリサイクル♪お片付けのチャンス♪」みたいな曲が流れている。こどものときは自分の家のおもちゃを誰かに明け渡すなんてこれ以上のない屈辱で、悲しみで途方に暮れていたと思うけれど、そんな屈辱的な行為をなんとなくポップな曲で促す怖さがある。ニコニコしながら自分の権利を収奪してくる人間に対する警戒感は、妥協の許せないこどもの頃の方が大きかったと思う。ミニマリズムなんて大人になってからでいい。可能な限り好きなもので溢れてるくらいがいい。いつか自然と他の誰かに渡るべきときがくるから。

Tender Buttons

最近Broadcastというバンドをよく聴く。調べてみるともう10年以上前にボーカルの女性は亡くなっていた。歌ってる人が既にこの世にいないという事実を受けると、また違うものに聴こえてくる。フィッシュマンズ佐藤伸治が実はもう死んでいた、ということを知ったときの感覚と似ている。エリオットスミスもそうかな。ちなみに志村正彦は生前を知っているので少し違う。

物悲しげに聴こえてた音楽が、急にフワフワとしてとらえどころのない音楽に聞こえる。悲しみとかそういう感情を超越して、ただそこに音の波が浮いているだけのような感じがする。

 

障害

  運動会の競技種目のひとつに障害物競走というのがある。レースの所々に障害物があり、それをクリアしていくやつ。その意味でいう「障害」と、いわゆる障害者の「障害」は、意味は同じはずなのに、主客が入れ替わっている。障害者は障害物競走で言うのであれば、ランナーの方で、社会が障害物だ。障害者に気を使って「障がい者」というポリコレ表現が使われたりするが、これは本当は障害者に気を使っているのではなく、障害をクリアできていない社会に気を使っているだけではないか。障害を抱えているのは社会であるということを見逃してしまう。社会こそがこの問題を解決しなければならないということを忘れてしまう。

 障害者といわゆる健常者というものは明確に区分されるわけでもない。人はみなどこか障害者の要素がある。たまたまその障害が今の科学で対処可能で、とてもマジョリティのものなので、社会で解決されているに過ぎない。たとえば僕は厚生労働省の定義において、障害者には該当しないが、非常に眼が悪く、眼鏡やコンタクトレンズがなければ、かなり近くの大きな文字も判別ができない。たまたま同じように目が悪い人間が多く(つまり眼鏡やコンタクトレンズを製造・販売することがビジネスになる)、現代科学で解決可能な種類の障害であったために、不自由なく生活できているに過ぎない。

 二足歩行で、耳が聞こえて、普通に言葉が話せる人間が、なんとなく標準であって、それ以外の手がなかったり足がなかったり、聴力がなかったり、自分の考えてることをうまく言語化できない人間がなんとなく障害であるとされているが、そもそもこれは単なるマジョリティとマイノリティの差でしかない。もしも人口の99.9%の足がなく、たまたま足がある人が0.1%しかいない社会だったら、誰も足がないことを「障害」とは言わない。むしろ沢山の車椅子が発明されているだろうし、世界は車社会ではなく車椅子社会になっていてもおかしくない。高速道路でビュンビュン走っているのは車ではなく車椅子かもしれない。

 コラムニストである伊是名夏子氏が、JRで車いすは乗車拒否されたということがニュースになっていた。(https://www.j-cast.com/2021/04/05408842.html?p=all

 事前にJRに伝達ができていなかったので、その点で女性に瑕疵があり、責められるべきなのかもしれない。いやいや。仮にそうだとして、問題なのは社会だ。そもそもなぜ伝達というコストをわざわざ女性が払わねばならない。補助を使わずに歩ける僕ら多くの人間はわざわざ駅に電話して「2時間後に駅に行きますので」なんて当然言う必要はない。ふらっと出かけてすぐに電車に乗ることができる。たまたまマジョリティの身体のつくりをしているおかげで。いったん乗車を拒否せざるを得なかった末端の労働者を責めるのも、車椅子の女性を責めるのも甚だ見当違いで、克服できない社会構造に問題がある。エレベーターが少なく、車椅子専用ロードがない、あるいは階段を歩くことのできる車椅子がない社会に問題がある。車椅子がロボットみたいに変形してときに歩き、ときにローラーで動くことができればなんの問題もない。

    もちろん現状の科学技術や社会のしくみ、予算を考えたらこんなことは言ってられない。ではどうすればいいのかと言われると分からない。僕の言っていることは現実とは大きく乖離した単なる妄言であるし、現実の社会をより便利にすることに直接寄与しない。少しずつ良くするという意味で、現実的な解決案を模索するというアプローチは別で必要だろう。しかし、そもそも障害を抱えているのは社会の方なんだ、という認識を忘れないためにあえて妄言のようなものを書いた。

  

生殖の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

生殖の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

  • 作者:小泉 義之
  • 発売日: 2003/05/14
  • メディア: 単行本
 

自動車ではなく車椅子で埋められている社会というアイデア小泉義之『生殖の哲学』から。まじでオモロイ。

 

今日は一日寝ていた

 久しぶりにTwitterでも見ようと思ったら、パスワードが分からず、しかも登録されているメールアドレスは、解約してしまったauのキャリアメールなので、完全にログインできなくなってしまった。ブログの更新のお知らせでだけツイートできるっぽい。1年半前にも同じことをしてしまい、しかもそちらのアカウントは鍵もかかってないので、インターネットの海にスペースデブリみたいに僕の恥部が浮かんでいて寒気がする。早く消えて欲しい。

 しかしここ数年はSNSに脳ハックされてるような感じがあったのでこれでよかったかもしれない。とくにこの一年、自分がいかにマイノリティか、人々が自由よりも管理されることを求めているか、ということを嫌というほど見せつけられてしんどかったし、もうやめておいた方がいい。右とか左とか関係なく総じてみんな抑圧的すぎて耐えられない。むかし(リベラルを批判する文脈で)東浩紀が「リベラルは理想主義的で、保守はうまくやることを考える」みたいなことを言っていて、「なるほどじゃあ自分はリベラルだ、僕はもう少し夢を見たい」と思っていたけど、ポリティカル・コレクトで規範的なことしか言わない、全然ラディカルじゃない人たちにリベラルは乗っ取られてしまったので悲しい。中核派が、議会制民主主義を前提にぬるいことやっていてまったく共産主義じゃない共産党にキレてる意味が少しわかった気がする。本気で資本主義に対するオルタナティブを出していこうという感じが全くしない。今の共産党改良主義的で、単に小手先で色々変えようとしてるだけだから、ちゃんと法律も守るし、だからポリコレとも相性が良い。同性婚やら選択的夫婦別姓やらも、保守の拡大であり、規範化を拡張してるに過ぎない。そもそもの婚姻制度や戸籍制度、天皇制に対する疑問はないのか。そして突き詰めれば、マイノリティの生きづらさは今の資本主義が問題なんじゃないのか。もっとラディカルに考えるほうが面白いと思うんだけど。まあその上で、結局民主主義と資本主義が1番マシなんだよな、という諦念もある。社会主義になったところでより最悪になるだけな気もする。

 1月の中核派議長の演説を見た。すごかった。気合い入ってる。まあでも中核派も杉並区議会議員とかになって何がしたいんだかはよくわからんな。共産党みたい。

 

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