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人生どうでも飯田橋

障害

  運動会の競技種目のひとつに障害物競走というのがある。レースの所々に障害物があり、それをクリアしていくやつ。その意味でいう「障害」と、いわゆる障害者の「障害」は、意味は同じはずなのに、主客が入れ替わっている。障害者は障害物競走で言うのであれば、ランナーの方で、社会が障害物だ。障害者に気を使って「障がい者」というポリコレ表現が使われたりするが、これは本当は障害者に気を使っているのではなく、障害をクリアできていない社会に気を使っているだけではないか。障害を抱えているのは社会であるということを見逃してしまう。社会こそがこの問題を解決しなければならないということを忘れてしまう。

 障害者といわゆる健常者というものは明確に区分されるわけでもない。人はみなどこか障害者の要素がある。たまたまその障害が今の科学で対処可能で、とてもマジョリティのものなので、社会で解決されているに過ぎない。たとえば僕は厚生労働省の定義において、障害者には該当しないが、非常に眼が悪く、眼鏡やコンタクトレンズがなければ、かなり近くの大きな文字も判別ができない。たまたま同じように目が悪い人間が多く(つまり眼鏡やコンタクトレンズを製造・販売することがビジネスになる)、現代科学で解決可能な種類の障害であったために、不自由なく生活できているに過ぎない。

 二足歩行で、耳が聞こえて、普通に言葉が話せる人間が、なんとなく標準であって、それ以外の手がなかったり足がなかったり、聴力がなかったり、自分の考えてることをうまく言語化できない人間がなんとなく障害であるとされているが、そもそもこれは単なるマジョリティとマイノリティの差でしかない。もしも人口の99.9%の足がなく、たまたま足がある人が0.1%しかいない社会だったら、誰も足がないことを「障害」とは言わない。むしろ沢山の車椅子が発明されているだろうし、世界は車社会ではなく車椅子社会になっていてもおかしくない。高速道路でビュンビュン走っているのは車ではなく車椅子かもしれない。

 コラムニストである伊是名夏子氏が、JRで車いすは乗車拒否されたということがニュースになっていた。(https://www.j-cast.com/2021/04/05408842.html?p=all

 事前にJRに伝達ができていなかったので、その点で女性に瑕疵があり、責められるべきなのかもしれない。いやいや。仮にそうだとして、問題なのは社会だ。そもそもなぜ伝達というコストをわざわざ女性が払わねばならない。補助を使わずに歩ける僕ら多くの人間はわざわざ駅に電話して「2時間後に駅に行きますので」なんて当然言う必要はない。ふらっと出かけてすぐに電車に乗ることができる。たまたまマジョリティの身体のつくりをしているおかげで。いったん乗車を拒否せざるを得なかった末端の労働者を責めるのも、車椅子の女性を責めるのも甚だ見当違いで、克服できない社会構造に問題がある。エレベーターが少なく、車椅子専用ロードがない、あるいは階段を歩くことのできる車椅子がない社会に問題がある。車椅子がロボットみたいに変形してときに歩き、ときにローラーで動くことができればなんの問題もない。

    もちろん現状の科学技術や社会のしくみ、予算を考えたらこんなことは言ってられない。ではどうすればいいのかと言われると分からない。僕の言っていることは現実とは大きく乖離した単なる妄言であるし、現実の社会をより便利にすることに直接寄与しない。少しずつ良くするという意味で、現実的な解決案を模索するというアプローチは別で必要だろう。しかし、そもそも障害を抱えているのは社会の方なんだ、という認識を忘れないためにあえて妄言のようなものを書いた。

  

生殖の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

生殖の哲学 (シリーズ・道徳の系譜)

  • 作者:小泉 義之
  • 発売日: 2003/05/14
  • メディア: 単行本
 

自動車ではなく車椅子で埋められている社会というアイデア小泉義之『生殖の哲学』から。まじでオモロイ。