blog non grata

人生どうでも飯田橋

2月5日

 2週間のベトナム旅行を終え、今朝帰国した。そして先月の26日に祖母が亡くなったことを知った。89歳だった。僕がベトナムにいる間は気を遣って知らせないでいてくれたらしい。ベトナムのことについて色々書きたかったが今はそういう気分にはなれない。先ほどお線香を上げてきたけれど、涙も出なかった。少し出そうだったけど、我慢してしまった。1人で泣きたい。でも1人でも泣けてない。よくわからない。今はこれ以上書くことはできない。

眠れない

あけましておめでとうございます。現在2023年1月9日の朝4時過ぎ。明日――というよりもあと3時間で家を出なければならないのでもはや今日であるが――1日中バイトなのに全く寝れずにこんな時間になってしまった。バイトは某アイドルグループのCD発売イベント(いわゆる握手会的なやつ。多分握手はしないけどチェキとったりする)で、そのグループは僕が大好きなグループなので、仕事として行くわけではあるけど、とても楽しみである。まあたまたまなんだけど。

2022年は公認会計士試験の勉強に追われた一年であった。そのことについてもちゃんとどこかで振り返りたいとは思いつつ、1月も半ばに差し掛かる頃合いになってしまった。今月中にはやろうと思う。

真夜中のテンションで今年の抱負とか語るのは良くないということは経験的に知っているし、おそらく同じようなことは至る所で言われてるだろうからしない。ベッドでスマホ片手にフリック入力で書くものでもない気がする。

2023年入って、1日1本は映画を見ようと思っていたのだが、新年入って8日余りで結局2本しか見れてない。「ベイビーわるきゅーれ」と「君は永遠にそいつらより若い」の2つ。どっちも最近の邦画で、まあまあ好きだった。たまたまではあるが、どっちも百合っぽい要素があった。百合映画という感じではない。前者は百合っぽいとまで言っていいのかわからんけど。なんで今日はこの2つについて簡単に感想を残すことにする。

「ベイビーわるきゅーれ」は19歳くらいの女の子2人が同棲して2人で殺し屋をやる話。「リコリス・リコイル」と同じな。殺し屋だけどポップで、合間はかわいらしくゆるい生活が殺しの合間を埋めることで、調和してる感じ。たた、リコリスの方は組織の中の人間だし、その殺しにも思想的な背景とかが描かれてるけど、本作はそういうのはない。雇われの殺し屋だし、なんで殺し屋やってるかもほとんど語られない。殺される側にも殺される理由はないし、ただ理不尽に人が殺されていく。語られないというのは、あえてその部分が隠されてるという感じではなく、ただなんとなく仕事だからやっている。すごいだるそうに殺してすごいだるそうに死体処理をする。まるでゴミ出し当番をサボった後の痴話喧嘩の如く、死体処理を1人に任せただとか、そういう感じで喧嘩する。しかもラバーガールの冨永が演じてる、殺し屋を雇ってる管理会社の人が2人に社会経験としてバイトくらいしなさいとか言ってやらせてんのも異様だ。すでに19歳に何件も殺しやらせておいて今更社会勉強も何もないだろ。そしてこの冨永さんも殺し屋を雇ってる本当に緊張感がない(笑)。ラバーガールのネタと同じテンション。殺し屋で何人も殺してて、しかもこういう倫理的に擁護するところが何もない犯罪なのに、ポップに描かれてるのはとても惹かれる。なんでこんなにポップに殺しが描けるんだろう。あと特に金髪の方の子のファッションはふんだんに原色が使われてて、Tシャツもソニックユースとかヴェルベットとかで、自分の趣味にストライクなサブカル感でよかった。

「君は永遠にそいつらより若い」は文学部(たぶん)の大学生の話。津村記久子のデビュー作の映画化。あとはほとんど卒論書くだけという状況で、なんもなくただ無為に時間を過ごしてしまう大学の描写のリアルだった。途中、佐久間由衣が演じる主人公のホリガイが、好意を寄せかけてた男の子の訃報を聞くシーンがあるんだけど、その大学生活のリアリティさも合間って、自分の大学2〜4回生の時に毎年のように聞いた友人や後輩の訃報のことを思い出してつらかった。知ってから3,4ヶ月はずっとなんかフワフワしてるんだよな。辛いし、その話もなんかしにくいし。まあ自分のことはいい。ただ基本的に内容は明るいことがなくて、ホリガイが心寄せかけてた男の子は理由もわからず自殺してしまうし、その男の子はネグレクトされてる子をお世話してるし、ホリガイの相手役の1つ学年下の奈緒演じるイノギさんは幼少期にレイプされてることが明らかになる。この映画はホリガイが処女であることをいじられるというセクハラされるシーンから始まるんだけど、途中でバイト先の後輩の男の子をホリガイがセクハラしてしまう。そんなこんなでいいことは全然起こらない(明らかにされない)のにあんまり暗い気持ちにならなかったのは、ホリガイとイノギの掛け合いが面白かったからかなと思う。途中のホリガイとイノギの長い電話のシーンとかも、めっちゃ邦画っぽくて好きだった。最後の方は怒涛すぎてちょっとついていけなかったけど。あとやっぱり奈緒演じるイノギさんがとても魅力的だった。奈緒は「結婚できない男」の続編出てる時に知ってから好きだったけど、今の若手の俳優の中で一番好きだと思う。

さて、もう朝6時だ。6時なんだから空は明るくあってほしいな。気持ちが沈む。そしてほぼ徹夜で、丸一日バイトに向かう。28歳がすることじゃないのでこういうのは最後にしたい。そういえば「君は永遠にそいつらより若い」の主題歌の小谷美紗子の曲が「眠れない」だったな。眠れないよ。


www.youtube.com

合格発表

 5月にTwitterを見ない代わりにブログを更新すると宣言しているのに、結局1週間でやめていた。完全に忘れていた。実に自分らしい、継続力のなさである。しかし勉強の方は淡々とこなしていた。途中6月末ごろにコロナに罹ったりして大変だったが、それ以外は問題なかった。まあその時受けられなかった模試を結局後から受験することもせず、「的中」させた問題を僕は知らないという大失策があったわけだが、まあその間サボっていたわけではなくさまざまな勉強をしてたわけで仕方ない。試験には運も必要で、その部分では僕は運がなかったというだけだ。でもまた別の部分では幸運だったところも多分にあった。その後8月末に試験があり、さらに3ヶ月ほどたった。急にブログをアホのように更新しているが、先日その某資格試験の結果が出たので色々書く余裕ができたからだ。結果は合格だった。詳細的なアレを書くかもしれない。

 詳細的なアレとはその試験界隈の人は結果が出た後振り返りのnoteみたいなやつである。僕の場合ははてなブログになるだろうけど。Twitterでは「需要があったらやろうと思います」という人もいるが、正直だいたいはただの自己満足だ。「このnoteを読んでくれた人に来年合格してほしい」などと本気で願っているわけではない。受かってる人のやっていることが全て正しくて、落ちてる人のやっていることが全て間違っているわけではない。受かった人を真似てもダメかもしれないし、落ちてる人を真似るべきところがあるかもしれないし、上位合格してる人の真似をしようとしてもそれができるとは限らない。要はただの結果論だ。自己満足でやってるんだから、みんなが求めるから書いてやるみたいなスタンスを取らなければいいのにと思う。しかし、その自己を満足させたい気持ちはめちゃくちゃわかる。だって大変だったもん。ちょっとくらいは自慢したい。だから後で僕も自慢するかもしれない。しないかもしれないけど。

 なんにせよ合格してよかった。ちょっと時間がかかりすぎたけど。

無意味という意味

 実務において何か情報を伝える場合以外の、広義の意味でのある種の文学性を孕む文章を書くとき、必要以上に修飾語をつけがちになる。このブログを含め、自分の文章を読んでいてもそう思うし、他の人のそういう趣旨で書かれた文章を読んでいてもそう思うことがある。書き言葉であることを意識しすぎてしまうきらいがある。もっと力を抜いて、シンプルな文章を書きたい。ただ、これは「わかりやすい文章を書こう」というようなものではない。

 まず、なぜそんな小難しく冗長な文章を書くということを試みてしまうのだろうか。それはおそらく文学的な文章に無意味を見出したいからだ。「無意味を見出す」というのは変な言い回しだが、つまり、実務的な情報伝達というつまらない言語使用への反抗の意思として、必要性、すなわち意味をあえて排除したいということだ。過剰な修飾語は無意味であり、情報伝達という点からすれば寧ろ無い方がいい。しかしそれをあえてやってみる。情報伝達という制限された言語使用から脱却し、言語そのものを、文章を書く行為そのものを楽しみたい。そういう意味で、小難しい文章を書きたくなる。

 ではなぜ、無意味で「楽しい」はずの小難しい文章に違和感をもつのか。それは意味があるからだ。あえて上でも「そういう意味で」と書いたが、無意味を目指した小難しい文章は、書かれた時点ですでに「意味からの脱却」という新たな意味を持ってしまう。「情報伝達という目的を果たすための必要性を排除する」という「目的」を果たすための「必要性」が生まれる、と言ってもいい。

   ダダが「ダダイズム」と呼ばれることを嫌うのと同じだ。あらゆる「なんとかイズム」には意味がある。「なんとかイズム」と言っている時点でその中における固有の原理原則が生まれ、「なんとかイズム」と「なんとかイズム以外」の2つに区別される。しかし、ダダイズムはその原理原則を撤廃しようとする思想だ。トリスタン・ツァラは「ダダは原理原則には反対だ。原理原則が存在しない、という原理原則にも反対だ」と宣言した。この文章の中にも明白に矛盾が孕んでいるし、結局、こういう宣言という形式を伴う時点でそれは不可避的に原則的になるという点でも矛盾している。それでも原理原則をきらうツァラのこの姿勢は、どうしても不可避的に伴う原理原則に対して反抗しようとしたツァラの精一杯の足掻きであり、その姿勢がとても好きだ。これはメビウスの帯のように構造上致し方なく孕む矛盾であるからそれに抵抗するというのはほんとうに難しくどこかで折り合いをつける必要があるが、僕も常に意味に抵抗していきたい。抵抗という意味を持たないように。そうすることで自ずと力が抜けた冗長でない文章になるのかもしれない。

R.I.P. Wilko Johnson

     大好きだったウィルコ・ジョンソンが21日に死んだ。75歳。末期の膵臓癌の宣告(のちに末期癌でなかったことが判明した)を受けてからもう10年くらい経つだろうか。本当に悲しい。アベフトシもミック・グリーンもウィルコ・ジョンソンもこの世にはいない。何度も日本に来てくれて良かった。生で見ることができて本当によかった。ありがとう。安らかに。

 

 以下、僕の見た、最初で最後となったウィルコ・ジョンソンのライブ(2017年10月13日@梅田クラブクワトロ)を見た翌々日、2017年10月15日にFacebookにあげた文章。

 お久しぶりです。最近ベンザブロックの「かぜぐすリリック!」が頭から離れない中村です。
 昨日の夜ついに、件の(と言っても2年以上前の話だけど)*1ウィルコ・ジョンソンを生で見てきました。嬉しすぎて泣きそう。ウィルコ特有の独特な前後に動きながら奏でるマシンガンギターを見て、うわー本物だぁと。もう信じられなかった。
 末期癌の宣告を受けて、延命治療を断り、「もう二度と君達に会うことはできない」と言いながら世界中を回ったのが2013年。当時浪人中だった僕は、ウィルコの膵臓を食べてあげさえすればウィルコは助かるのに!と毎日思いながらも、せっかく日本に来てくれたウィルコを見に行くことすらせずに、勉強しているフリばかりしてました。僕が膵臓を食べてあげる必要もなく、彼は奇跡の復活をとげ、2年前の2015年、再び日本に。しかし阿呆な僕はまたしても勉強するフリをして、ウィルコを見逃してしまったのです。好きな女の子に冷たくしちゃう素直になれない男の子みたいに。でも、昨夜四年越しについに出会えました。4年前も2年前もウィルコの来日をするしてしまった本当に阿呆な僕だったけれど、彼は見捨てませんでした。本当にありがとう。
 ちなみに学業とウィルコ・ジョンソンは両立できないという今までの教訓を生かして、ちゃんと5限をサボって行きました。5限は寝坊しちゃっただけなのは内緒です。

negiccoのベンザブロックのCMも懐かしいね...。

*1:2015年7月27日、Facebookに以下のような文章を投稿していた。この脚注が一番長いのはご愛嬌。

 2009年の12月25日の夜、大好きだったフジファブリック志村正彦さんの訃報を知って、悲しみに暮れながら、夜な夜な内村プロデュースの動画を見て、必死に笑おうとした。悲しみを忘れようと、必死に。でもTIMのレッド吉田の「ロドリゲス!」を見ても、「トントントントン!ワシントン!」を見ても、「ファイナルジャケット!」を見ても、全然笑えなかった。あんなに面白いネタを見ても笑えなかったのだ。そんな精神状態ではなかった。
 まあレッド吉田はどうでもいい。そんでそのとき、「今年亡くなった主なミュージシャンたち」っていう特集を発見して、忌野清志郎らと共にアベフトシ(ギタリスト)って書いてあるのを見つけた。とりあえず聴いてみるか。YouTubeでそのアベフトシさんが在籍してたというTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT(以下、TMGE)の「世界の終わり」という曲のLIVE映像を見てから、延々TMGEばかり聴いてた。
 好きなミュージシャンができると、その人のルーツをしりたくなるものだ。アベフトシが敬愛するギタリストは、The PiratesのMick GreenとDr.FeelgoodのWilko Johnsonらしい。2人ともいわゆるパブロックというジャンルの、アベと同じく鬼のようなカッティングをするギタリストだ。そしたら今度はDr.FeelgoodとThe Piratesに憂き身を窶してしまった。いつか彼らのライブを見に行きたいなあ日本に来ないかなあってぼんやりと思ったりしていた。
 しかし、翌年の1月、ミック・グリーンはアベを追うように亡くなってしまう。彼のギタープレイを一度も生で見ることなく、逝かれてしまった。そのとき決意したのだ、絶対にウィルコは生で見てやると。
 時は流れ2013年、ウィルコ・ジョンソンは末期の膵臓癌であることを発表した。やる予定のライブだけすべてやり切って、リタイア。アベフトシもミックグリーンも、ついでにいえば志村正彦も生で見ることができなかった僕は、ウィルコさえも見ることはできなかったのだ。
 ところが、ウィルコは最高にロックなやつだった。延命治療なんてせず、体が持つ限り俺はギターを弾き続ける!ってことで死ぬまで演奏し続けることを決意したのだ。日本にも来て演奏した。もちろん僕はライブに行く...はずだったのだが、当時浪人生の身であった僕は、勉強第一!とか言って、行かなかった。とんでもない阿呆である。ウィルコはもう死んでしまうんだ、見られないんだ。なのに僕は行かなかった。浪人なんて何年でもすればいい。ウィルコは命懸けでカッティングをしているのに。そこでちょっとライブに行かなかったからと言って合否に直結する話でもない。僕は阿呆だった。
 ただこの話はまだ終わらない。ウィルコを犠牲にして僕が京都大学に入学した僅か数日後、彼の膵臓にあった腫瘍は完全に除去されたのだ。まさかの末期がんからの復活である。
 そして今、ウィルコは来日している。苗場にいる。昨夜、フジロックで演奏したのだ。僕はもちろん見に行っているはずであった。
 。。。だがしかし!僕は今京都にいる。テスト期間中なのだ。テストがあるから京都にいる。結局はすべて僕の行動は己の身の保身のため。阿呆だ。本当に阿呆だ。しかも、京都にいるのにおそらくほとんど単位が取れない可能性が高い。これからテストなのにほとんど対策せず、こうやってFacebookを更新している。もう救いようがない。本当にウィルコに申し訳ない。
 そして今知ったことに、明日ウィルコは京都磔磔でライブをやるらしい。もう僕は何をしているのだろう。自らのふがいなさに涙が出てきた。ちくしょう。誰か譲ってくれよ、チケット。金なら出すかさあ...誰か....チケット...ウィルコ......

5月10日11日

 合併号出しすぎではないか。もはや昨日のことはよく覚えていない。今日は財務の3時間の答練を受けた。昼間に3時間答練受けると1日が本当にあっという間だ。

 答練を受けた日は風呂の中でブツブツとぼやいてる。基本的に反省ばかりだ。楽天の野村監督みたいな感じ。そういえばあと100日らしい。計算に注力できるのはあと30日くらいだと思うが、まだ間に合う。5月は理論多めの計画を立てていたが、やはりもう少し計算にウエイト置いてやろう。