blog non grata

人生どうでも飯田橋

2月12日

 母方の祖母が危篤であることを知ったのは、1月9日のことだった。祖母と2人暮らしの伯父からラインで連絡が来た。血液検査の結果が非常に悪く、いつ何があってもおかしくないと強い調子で言われたとのこと。最初は書いてある意味がよく分からなかった。深刻なニュースを急に文面で見ると、一瞬咀嚼できないことがある。中学から大学まで、浪人していた予備校時代も含めてずっと一緒だった親友の訃報を、彼のお姉さんからメールで連絡が来た時も、なぜか同じ苗字の違う人のことかと思った。祖母は89歳だったし、何があってもおかしくないと認識はしていたにもかかわらず、やはりすぐには受け入れられなかった。

 祖母は僕が生まれる前に離婚しており、すでに彼女の息子である伯父と2人暮らしだった。歩いて20分くらいの距離のところに住んでいたので、伯父から勉強を教わるという体で、小さい頃はよく1人で遊びに行ってた。祖母の家にあった漢和辞典が好きになって、読むことに没頭していた。1番画数の多い字を探したり、オリジナルの漢字を作ったりしたときはとても喜んでくれた。中学に上がると家に行くこともめっきり無くなり、年数回、誕生日やお正月にあって一緒にお祝いする時以外は会わなくなっていた。

 大学生になり僕は京都に行くことになったが、その頃から祖母は認知症を患っており、5年前くらいからまともに会話ができなくなっていた。僕が京大に受かった時は確かに喜んでいたと思う。伯父と共に京都に来て、高い焼肉をご馳走になったこともあった。しかし、その後に会った時は、僕が京都で暮らしていると言うことは忘れていた。何度説明しても、あらそうだったの、と言って終わるだけだった。その時はまだ会話は可能だったが、住む場所が遠くなって会う機会も減っていくうちに、たまに会うともう会話そのものが難しくなっていた。おそらく僕を孫だとも認識できなくなっていたと思う。そのことが辛かったし、会うのも億劫になってしまった。晩年は年1回くらいしか会えなかったし、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいであった。

 ただ、これは後から美化しようとしているに過ぎないのだが、今思えば、祖母は会うといつもニコニコしていたし、すぐいろんなところにうろちょろしていて元気だったし、楽しそうにも見えた。日本語のような何かをこちらに喋りかけて笑っていた。虚しいのだがそれが愛しいとも思える。

 最期に祖母と会ったのは1月20日の金曜日だった。最期に手を握った。とても辛そうだった。6日後に亡くなったらしい。会った直後に日本を発って2週間ベトナムにいた僕はそれを知らなかった。家族が気を遣って僕には知らせなかった。葬式も何も行けず、帰ってきたら全てが終わっていた。お見送りできなかった自責の念と共に、辛そうな姿をもう見たくなかったので、ホッとしてしまった気持ちがあった。そして時間を置いてから、この世界にもう祖母がいないという寂しさが襲ってきた。

 これがちょうど1週間前の出来事。この1週間はずっと心ここに在らずというかふわっと生きていた。しかしそれとは関係なく世界は動いていく。何事もなかったかのように。それが寂しいけれど、それが救いでもあった。少しずつ落ち着いてきた。生きていかねばならない。