ただいま午前4時半を超えるところだ。まともな大学生活というのはおよそ4年ぶり、今年でなんとか卒業しようと10年目の春を迎えていた。最初の1ヶ月は頑張った。ところどころサボることはあれど、午前の授業もなんとか遅刻しつつも出席し、たまの小テストやフランス語の予習もちゃんとやっていた。10年目にしてかなりイイカンジの大学生活を送っていた。もうサークルもないし、友人関係も少なく、結構マイペースにやってこれたのが良かった。
しかし、いつものヤツがはじまってしまった。例の音が鳴り響く。生活リズムが脆くも崩れる音が。ああ、こうやって僕は10年も大学にいたんだった。5月病にだけはなるまいとゴールデンウィークの翌週は耐えた。しかし、その翌週、それは訪れた。週末提出しなければならない金曜の授業の宿題の提出を忘れ、月曜の2限も初めて休んでしまった。そして現在水曜の朝4時44分、ばっちり起きている。今日はラテン語とフランス語2コマある1週間で1番きつい日だというのに。2限のラテン語は小テストがあり、4限のフランス語講読の予習もしてない。5限のフランス語の会話の授業の復習もしてないから、フランス語で振られても「あっあっ...Pardon. je ne sais pas...」とか言ってフランス人の先生に呆れられるのが目に見えている。いやそもそも授業に行けるのか。これから寝るのか。徹夜で挑むには1日は長すぎる。今寝て起きれるとも思えない。投了するしかないのか。もう致し方なくブログを書いている。本当に致し方ないのか。そんなもん書いている場合か。寝た方がいいのではないか。寝た方がいい。そして5月の朝は無意味に早い。もう空は明るい。明けて欲しくなかった。募る焦燥感。
これだけじゃあれなんで、なんか語ろう(寝ろ)。本当は今日リリースのスピッツのアルバムについて語りたいところだが、まだ聴く準備が整ってない。なんてったって4年ぶりなんだから安易に聴けない。CDを買って実家に届いているはずなので、歌詞カードを見ながら聴きたい。
ってことでいま読んでる本について。阿部賢一『複数形のプラハ』である。非常に面白い。19世紀後半から20世紀前半、第二次世界大戦が終結し、チェコスロヴァキアが共産主義国家になる前までのプラハにおける、その複数性、多層性について扱った本。プラハは19世紀はハプスブルク家のオーストリア・ハンガリー帝国に属し、そして第一次世界大戦以降はチェコスロヴァキアの首都であった。そんな激動の時代のプラハを生きた、カフカやヤナーチェック、リルケといった芸術家たちがどう見たのか。
まだ途中だが、リルケとプラハの関係は面白かった。カフカとほぼ同時代を生きた偉大な詩人リルケ。現在のプラハではカフカの名を冠した公園が存在し、彼の記念碑、看板はたくさん見られるており、チェコ人にとってのカフカという存在にまつわる政治的・文化的な矜持が感じられるが、一方でリルケに関してはほとんどそういった痕跡が見られない。世界的にも有名な詩人であるにも関わらず。それは彼の作品のスタンスに表れていた。
リルケは1875年にプラハで生まれる。そして6歳の時にドイツ語で教育がなされるカトリック系の教団の学校に入学する。これにより彼は「チェコ語」ではなく「ドイツ語」の道に進むことになり「ドイツ人」「オーストリア人」としてのアイデンティティを獲得することになる。当時、リルケが住んでいたプラハのハインリヒ地区はチェコ人とドイツ人、チェコ語を話す人とドイツ語を話す人は共におよそ50%で、それぞれ別のコミュニティで生きることが多かった。それでも当時はまだお互いの関わりは多かったものの、時が経つにつれドイツ人人口は少数派になっていき、お互いはより隔絶されるようになる。1900年にはドイツ人は30%を切るようになっていた。
そうした中でリルケは「ボフシュ王」「兄妹」の2編からなる『二つのプラハの物語』という散文集を1899年に発表する。ドイツ語の〈Prag〉とチェコ語の〈Praha〉の2つの物語。確かに彼は「ドイツ系市民」として生きていたが、そこで主に描かれていたのはむしろ「チェコ系市民」への眼差しであった。当時すでにドイツ人は少数派であったにも関わらず、文化的にはドイツ語が上位だった。大学はドイツ語で授業がなされ、主要な新聞もドイツ語で、オペラもドイツ語が優先的に上映された。ただ一方で、「ボフシュ王」においても「兄妹」においても主人公はチェコ系住民であり、「ボフシュ王」においては「ナロードニーカフェ」(国民カフェ)というチェコ系市民のためのカフェについて度々言及するなど、リルケはむしろチェコ系住民の視点でプラハを描いていったのだ。「兄妹」においてはチェコ系住民を指して「われわれ」という主語を用い、ドイツ系住民であったリルケが「チェコのプラハ」への最大限の歩み寄りを見せた。
しかし、そのチェコの優れた文化の描き方はいにしえの時代のプラハへの遡及的なものに過ぎなかった。「ケーニギンホーフの古文書」というチェコ語で書かれた最古の手稿を扱い、よりチェコ文学としての歴史の長さをもって、チェコ文化の独自性や連続性を強調するにとどまり、「現在の」チェコ文化についての言及はなかった。
リルケはその後、詩篇「疑わしい場合に」で、「中庸」の選択をしたことを告白し、もっぱらチェコ的なモチーフを取り上げた『二つのプラハの物語』のような書き方はもうしないことを本人は述べている。このようにリルケは自身の故郷をキャリアの前半で描くことになったが、プラハからは離岸していくことになる。その後はプラハに戻ることなく、ロシアやイタリア、フランスを旅行する中でロダンをはじめとした様々な芸術家に出会う過程で「コスモポリタン」な詩人リルケが出来上がっていく。こうしてリルケは「チェコの国民文学」という扱いを拒否していくのだった。
このようなリルケの姿勢は、チェコを亡命しフランス国籍を獲得して、フランス語で執筆活動を行うようになったミラン・クンデラに通ずるものを感じる。クンデラはビロード革命によって民主化されて以降も、30年以上経った現在に至るまで、国籍の回復はあれど、チェコに復帰していない。もちろんハプスブルク帝国の一都市だったプラハから移動したリルケと共産党政権のチェコスロバキアからの亡命したクンデラでは大きく異なる訳だが。
プラハという街はチェコ人(スラヴ)とドイツ人(ゲルマン)、プロテスタントとカトリック、そしてユダヤ人と様々な文化や人種が交差する地点にあり、その中で類稀な文化都市が形成する中にあって、文化人のスタンスも様々だ。リルケやクンデラとは異なり、当然プラハに残った文化人も多くいるし、そこには様々な眼差しが存在する。プラハに対する多種多様な眼差しが紹介されるこの本のおかげで、プラハという街がさらに魅力的に感じられるのだ。
はあ、完全に朝になってしまったよ。やれやれ。とりあえず寝る。