blog non grata

人生どうでも飯田橋

やさしい生活

 先日インターンの面接で「あなたの人生において最も価値観の変わったことはなんですか?」と聞かれた。僕はその回答を全く準備していなかったため、数秒間黙りこくってしまった。

 こういう時は正直に話さざるを得ない。だから2回生の夏に経験した友人の訃報のことを語った。正直に話していたつもりであったが、彼の死後の自分の人生を思うと「本当に変わったのか?」と心の中で自問自答してしまい、自分の今語っていることがあまりに辛くなって面接中に涙が出てしまった。クレヨンしんちゃんの逆襲のロボとーちゃんでも泣かなかった僕なのに。

 彼の葬式には行ってない。お墓参りもしたことないし、彼のお墓がどこにあるのかも知らない。訃報は、彼の亡くなった4日くらい後、彼のお姉さんからのメールで知った。葬式も終わっていたらしい。すごい長文で、僕がお見舞いに行って彼がとても喜んでいたこととか、とても詳細に書いてくださっていた。最後に、「今はそっとしておいてください」と書かれてあった。最初は全く受け入れられず、数日間おいてメールを送ったけど、返信は来ていない。彼の携帯メールから送っていたようなので、お姉さんには届いていないのかもしれない。「そっとしておいて」と言われて以来音沙汰はないので、どうすることもできないでいる。

 その代わり、彼の命日には鴨川にいくようにしている。中学高校から一緒で、2人とも現役ではうまくいかなかった。同じ塾で浪人をした。うちの高校の僕らの代の浪人として京大に来たのは僕らだけだった。しかも同じ文学部。彼は中学高校時代、僕よりずっと頭が良かったし、彼と2人だけ京大というのはちょっとだけ誇らしかった。

 彼は鴨川より西側の堀川今出川に住んでいたので、遊ぶときは鴨川の丸太町のところで解散することが多かった。僕にとって彼との一番の思い出の地である。大学に入ってすぐ好きになった女の子の話をしたりもした。僕は人に自分の色恋を話すのがあまり好きではないので、話したとしても結構適当なことを言ってるのだが、彼にだけは本当のことを打ち明けていたと思う。そしてこう言う話をするのも、いつも鴨川だった。お互いに帰るポーズを見せながらも名残惜しくて、延々と立ち話をしていた。今でも克明に思い出す。

 でもそれは大学に入った最初だけで、彼が陸上部に入って忙しくなると、あまり会わなくなった。同じ授業をとったりもしていたけど、僕は寮に引きこもるようになっていたので会うこともなくなった。

 そうした中、2回生になる3月、彼は東京で入院し始めることになった。だからもちろん大学にも行けなくなった。病気の詳細は聞かなかったけど、まあ大丈夫だろうと思っていた。

 ただLINEでは精神的に弱ってそうな感じだったので、一回東京の病院にお見舞いに行こうと思って、帰省した。病院で僕を迎えた彼の頭に髪の毛はなく、少し弱っている様子だった。そして、抗がん剤を投与しているということを知った。かなりショックだった。自分と同じ年で、僕なんかよりもよっぽど運動神経も高くて、健康そうな奴がどうしてこうなるんだろうと。現実だとは思えなかった。

 でも、「部活に復帰できるんだろうか」と言うことを気にしていたし、そこまで進行していないのかと思って心配はしていなかった。LINEもしなくなった。その後、彼が京都に戻って来た時に一度だけあったけど、それが最期だった。夏休み前最後の日、文学部校舎の前で「またね」と行って以来、そのまたは来なかった。

 彼が亡くなって3年がたとうとしている。自分の価値観は変わったのだろうか。少なくとも怠惰なところ飽き性なところ、そういうのは全く変わっていないし、むしろいろんな人に迷惑をかけながら虚勢だけで生きているダメなやつになったと思う。ごめん。彼は今の僕をどう思っているんだろう。僕は大学5回生になっちゃったけど、彼は何をしているんだろう。

 文字におこして、このことを思い出すと辛くなるけど、彼の事はこれからも書くつもりだ。生身の生きている彼には会えないけど、ブログに書いたりする事で、会うことができる。

 僕が1年以上はまっているカネコアヤノ。辛い時もカネコアヤノを聴いていると救われる。でも、まだ大丈夫になってないな。もう少し大丈夫になりたいよ。