blog non grata

人生どうでも飯田橋

においの蒐集家

 マスク越しで呼吸をすると自分の臓物の茶色いにおいがするけど、マスクをとって思いっきり深呼吸をしてみると、薄紅色のいいにおいがする。流行り病のにおいかもしれない。春の到来のにおいかもしれない。

 

 小さいとき、あらゆるにおいが好きだった。祖父の家の線香のにおい。雨上がりに地面から漂う大地のにおい。母が塗っているマニキュアのにおい。ガソリンスタンドのにおい。一日ぶりに剥がした絆創膏のにおい。自分のほじった耳垢のにおい。くさいと思ったものでも何度も何度も嗅いでると、癖になってだんだん好きになっていく。嫌いが徐々に好きになる経験が楽しくて、においへの探究心は留まることを知らなかった。

 

 そしてそのにおいを「蒐集」していた。もちろん直接においを集めることはできない。画用紙ににおいを記録するのだ。においをことばで表現するほどの語彙力がなかった僕は、絵の具を使って絵にしていた。僕の好きなにおいは茶色っぽいものが多く、茶色の機微を表現するために試行錯誤した。自分の耳垢のにおいは、茶色と黄色を7:3の比率で混ぜて、それを父のタバコの吸い殻の上で作って表現した。我ながら傑作だと思った。両親はそれを不思議そうに見ていたけれど、特にそれを咎めることもなかった。

 

 一番好きだったにおいは、自分の血のにおいだった。赤褐色の血のにおい。自分の血を嗅ぐためなら、転ぶこともやぶさかではなかった。いつ転ぶかなとワクワクしながら、近所を走り回っていた。よく転ぶ子供だった。転ぶたびに、においを嗅いで満足していた。そしてその血を使って、画用紙に血のにおいの絵を描いていた。他のにおいと違って直接においを絵にできるところが気に入っていた。わざわざ絵の具を使う必要はないし、その血を画用紙に塗りたくればそれで済む。においを絵で表現することに対して、僕はロマンチストではなくただひたすら合理性を重視していた。できることなら絵ではなくにおいを直接集めたかった。気がつくと面倒くさい作業を必要とする他のにおいへの興味は薄れ、血を効率的に集めることだけに夢中になっていた。茶色だらけだった僕の画用紙はいつの間にか血だらけになっていった。

 

 小学校に入学したころになると、社会性の獲得と共に、自分の行為が道徳としてあまり良くないし、危険であるということを知った。何回か血で染められた画用紙が見つかって親からも叱られた。だんだん血のにおいへの執着も無くなり、においの画用紙もどこかへ行ってしまった。無味無臭のつまらない学校生活を送っていた。

 

 それから10年余りが経った高校2年生になった時、失われたあの頃の嗅覚が戻ってくる。昼休み、いつものように、屋上で1人パンを食べていたら、同級生の女子が屋上から落ちた。そして懐かしい深紅の強いにおいがした。屋上からでもわかる。血のにおいだ。一瞬で全てを思い出した。嬉しくて嬉しくてたまらなかった。生きる糧を見つけたと思った。ちゃんと集めないといけないと思った。蒐集するための数学のノートから取り出し、それを片手に彼女を追うように屋上から飛び降りた。

 

 高さが足りず、2人とも一命を取り留めた。今までに嗅いだとことのない美しく強いにおいだったが、それだけでは満足できなかった。彼女も同じだった。彼女も僕と同じように血のにおいの蒐集家だったのだ。彼女は満面の笑みでポケットから2本のカッターナイフを出し、1本を僕に渡した。まずは彼女が僕の腕に切り込みを入れる。カッターと腕の角度は70度くらい。ほとんど垂直に近い感覚だ。ゆっくりゆっくり、肘の裏から掌まで、スーッと切り込みを入れていく。痛みは感じなかった。何も言わず2人はお互いがお互いの身体をカッターナイフで傷付け合った。お互いの足、腹、顔、首、そして身体の全ての部分を切り裂きあった。全てを了解しあっていた。僕と彼女の血が調和した深紅のにおいは、最も美しいにおいだった。2人は憔悴する中、それを数学のノートに息絶えるまで塗りたくった。 

 

 この話はフィクションです。