blog non grata

人生どうでも飯田橋

精神的に向上心のない者は利口

 多くの困難を乗り越えて、最終的に大きな「成功」を獲得する。今ある困難も将来の「成功」のための「努力」。いつの日か訪れるであろう「成功=幸せ」のために、「努力」をする。 

 

 結果として思い描いていた「幸せ」にたどり着けなかったとき、それは「失敗」であり人は「不幸」を味わう。そして「失敗=不幸」が、新たなリベンジとして次の「成功=幸せ」のためのスタートになる。そしてそれが後から語られるとき美談になる。過去の「失敗」も、のちに語られる美談の重要なアクセントになるのだ。「困難があってこその現在の成功なのだ!」みたいなことになる。「失敗は成功の母」なんて言葉もある。

 

 今の世界は、こういった進歩主義的な価値観で溢れている。スポーツやビジネス、カルチャー。様々なところで「活躍」している人・チームの過去を振り返るとそういったストーリーで語られることが多い。「どうしようもないほどの絶望」からの「血の滲むような努力」によって手に入れた「成功」みたいなストーリーがみんな大好きだ。

 

 もう一つ大切な視点がある。他者の存在だ。「成功」や「失敗」の考え方は他者への「憎悪」を生む。自分が「失敗」しているとき、あるいは「成功」に向けて「努力」しているとき、「成功」している他者に対して羨望の目線を向け、それが「憎悪」へと転化していく。また、もし自分が「成功」したとして、誰にも賞賛されなかったら?それは「成功」だとは思えないだろう。「成功」というのは他者からの称賛が前提にある。みんなに共有されているからこその「成功」なのだ。これはラカンの「欲望は他者の欲望である」というテーゼにも通じてくる。安直にラカンを引用すると色々と怖いのでこれくらいにしておく。

 

 しかしこんな価値観に固執する必要なんてない。「失敗」は「失敗」のままでいいのだ。いや、そもそも「失敗」とか「成功」なんてものは事実として存在しない。「成功」という理想を手に入れられなかったとき、それが「失敗」であると考えているに過ぎない。つまり人間が勝手に設定しているだけ。ただの共同幻想ニーチェも「事実などない。あるのは解釈だけだ」と言っている。

  

 閑話休題、つまり僕が言いたいのは、「成功」のために「努力」をするとったような、苦しみの連鎖を生むだけの、他者からの視線に躍らされている生き方やめればいいのに、ということだ。

 

 もっと楽に生きよう。生きているだけで素晴らしいのだ。*1それ以上でもそれ以下でもない。進歩主義的な考え方をしたときにそれが「退化」だったとしてもそれで何か問題ある?「苦しい進化」よりも「楽な退化」じゃない?どうせ僕たちあと数十年で死ぬんだよ笑 苦しんで進化した結果死ぬの?しかも進化できるかも分からないよ?一生コイキングかもよ?苦しんで苦しんでコイキングLv.100だよ?

 

 それでもギャラドスになりたいというなら、それはそれでいい。でも、ギャラドスより強いやつ多分いっぱいいるよ。僕はごめんだ。コイキングでいたい。

*1:そもそも僕は自殺擁護派なので、嫌になったら死ねばいいと思う。まあ「生きてる方がマシじゃない?借金なんて踏み倒しちゃえよ、ブラック企業とか逃げちゃえよ、生活保護最高www」って思ってしまうけど、このへんは認知の違いだ。どうしても嫌なら仕方ない。苦しい生に固執する必要はない。