blog non grata

人生どうでも飯田橋

2024

 昨年5月から全く更新していなかった。この間色々あった。単位をたくさん取ったり、勤め先から急に2ヶ月丸々シフトを外されたり、そのせいでちょっと揉めたり、転職活動をしたり、卒論を書いたり、退職を決めたり、有給取得を求めたら怒られたり、内定をもらったり、タイに行ったり、タイで大麻を吸ったり、チバユウスケの訃報を知ったり、就職したり、ミッシェルを聴いたり、研修を受けたり、バースデイを聴いたり、卒論を書いたり、ROSSOを聴いたり、卒論を書いたり、ミッシェルを聴いたり、卒論を書いたり、バースデイを聴いたり。そして気が付いたら2024年になっていた。

 卒論は大変しんどかったが、今思うと前期末が1番しんどかった。大量に抱えた語学及び般教のテストとレポートで、丸々2日間くらいは徹夜したと思う。28歳(当時)の身体で50時間近く起きているのはしんどかった。その甲斐あってなんとか後期は3コマで済んだけど。

 前期はたくさん映画に見に行こう!と思って、出町座、アップリンク京都シネマ、MOVIXにめっちゃ通ってたのに、授業少なくなった後期は逆にほとんど行かなくなってしまった。数少ない行った中ではブログにもかいた「コンパートメントNo.6」が一番良かったかな。後期は卒論の執筆というプレッシャーでそれどころではなかったかも。なんとか形になるものはできたと思う。「レポートの形をしたゴミ」という大学生用語があるが、そのレベルよりは一段階か二段階上の卒論は書けた気がする。一回目の卒論演習の発表はボロクソ言われたけど。いやあ、なんとか卒業させてほしい。

はじまった

 ただいま午前4時半を超えるところだ。まともな大学生活というのはおよそ4年ぶり、今年でなんとか卒業しようと10年目の春を迎えていた。最初の1ヶ月は頑張った。ところどころサボることはあれど、午前の授業もなんとか遅刻しつつも出席し、たまの小テストやフランス語の予習もちゃんとやっていた。10年目にしてかなりイイカンジの大学生活を送っていた。もうサークルもないし、友人関係も少なく、結構マイペースにやってこれたのが良かった。

 しかし、いつものヤツがはじまってしまった。例の音が鳴り響く。生活リズムが脆くも崩れる音が。ああ、こうやって僕は10年も大学にいたんだった。5月病にだけはなるまいとゴールデンウィークの翌週は耐えた。しかし、その翌週、それは訪れた。週末提出しなければならない金曜の授業の宿題の提出を忘れ、月曜の2限も初めて休んでしまった。そして現在水曜の朝4時44分、ばっちり起きている。今日はラテン語とフランス語2コマある1週間で1番きつい日だというのに。2限のラテン語は小テストがあり、4限のフランス語講読の予習もしてない。5限のフランス語の会話の授業の復習もしてないから、フランス語で振られても「あっあっ...Pardon. je ne sais pas...」とか言ってフランス人の先生に呆れられるのが目に見えている。いやそもそも授業に行けるのか。これから寝るのか。徹夜で挑むには1日は長すぎる。今寝て起きれるとも思えない。投了するしかないのか。もう致し方なくブログを書いている。本当に致し方ないのか。そんなもん書いている場合か。寝た方がいいのではないか。寝た方がいい。そして5月の朝は無意味に早い。もう空は明るい。明けて欲しくなかった。募る焦燥感。

 これだけじゃあれなんで、なんか語ろう(寝ろ)。本当は今日リリースのスピッツのアルバムについて語りたいところだが、まだ聴く準備が整ってない。なんてったって4年ぶりなんだから安易に聴けない。CDを買って実家に届いているはずなので、歌詞カードを見ながら聴きたい。

 ってことでいま読んでる本について。阿部賢一『複数形のプラハ』である。非常に面白い。19世紀後半から20世紀前半、第二次世界大戦終結し、チェコスロヴァキア共産主義国家になる前までのプラハにおける、その複数性、多層性について扱った本。プラハは19世紀はハプスブルク家オーストリア・ハンガリー帝国に属し、そして第一次世界大戦以降はチェコスロヴァキアの首都であった。そんな激動の時代のプラハを生きた、カフカヤナーチェックリルケといった芸術家たちがどう見たのか。

 まだ途中だが、リルケプラハの関係は面白かった。カフカとほぼ同時代を生きた偉大な詩人リルケ。現在のプラハではカフカの名を冠した公園が存在し、彼の記念碑、看板はたくさん見られるており、チェコ人にとってのカフカという存在にまつわる政治的・文化的な矜持が感じられるが、一方でリルケに関してはほとんどそういった痕跡が見られない。世界的にも有名な詩人であるにも関わらず。それは彼の作品のスタンスに表れていた。

 リルケは1875年にプラハで生まれる。そして6歳の時にドイツ語で教育がなされるカトリック系の教団の学校に入学する。これにより彼は「チェコ語」ではなく「ドイツ語」の道に進むことになり「ドイツ人」「オーストリア人」としてのアイデンティティを獲得することになる。当時、リルケが住んでいたプラハのハインリヒ地区はチェコ人とドイツ人、チェコ語を話す人とドイツ語を話す人は共におよそ50%で、それぞれ別のコミュニティで生きることが多かった。それでも当時はまだお互いの関わりは多かったものの、時が経つにつれドイツ人人口は少数派になっていき、お互いはより隔絶されるようになる。1900年にはドイツ人は30%を切るようになっていた。

 そうした中でリルケは「ボフシュ王」「兄妹」の2編からなる『二つのプラハの物語』という散文集を1899年に発表する。ドイツ語の〈Prag〉とチェコ語の〈Praha〉の2つの物語。確かに彼は「ドイツ系市民」として生きていたが、そこで主に描かれていたのはむしろ「チェコ系市民」への眼差しであった。当時すでにドイツ人は少数派であったにも関わらず、文化的にはドイツ語が上位だった。大学はドイツ語で授業がなされ、主要な新聞もドイツ語で、オペラもドイツ語が優先的に上映された。ただ一方で、「ボフシュ王」においても「兄妹」においても主人公はチェコ系住民であり、「ボフシュ王」においては「ナロードニーカフェ」(国民カフェ)というチェコ系市民のためのカフェについて度々言及するなど、リルケはむしろチェコ系住民の視点でプラハを描いていったのだ。「兄妹」においてはチェコ系住民を指して「われわれ」という主語を用い、ドイツ系住民であったリルケが「チェコプラハ」への最大限の歩み寄りを見せた。

 しかし、そのチェコの優れた文化の描き方はいにしえの時代のプラハへの遡及的なものに過ぎなかった。「ケーニギンホーフの古文書」というチェコ語で書かれた最古の手稿を扱い、よりチェコ文学としての歴史の長さをもって、チェコ文化の独自性や連続性を強調するにとどまり、「現在の」チェコ文化についての言及はなかった。

 リルケはその後、詩篇「疑わしい場合に」で、「中庸」の選択をしたことを告白し、もっぱらチェコ的なモチーフを取り上げた『二つのプラハの物語』のような書き方はもうしないことを本人は述べている。このようにリルケは自身の故郷をキャリアの前半で描くことになったが、プラハからは離岸していくことになる。その後はプラハに戻ることなく、ロシアやイタリア、フランスを旅行する中でロダンをはじめとした様々な芸術家に出会う過程で「コスモポリタン」な詩人リルケが出来上がっていく。こうしてリルケは「チェコの国民文学」という扱いを拒否していくのだった。

 このようなリルケの姿勢は、チェコを亡命しフランス国籍を獲得して、フランス語で執筆活動を行うようになったミラン・クンデラに通ずるものを感じる。クンデラビロード革命によって民主化されて以降も、30年以上経った現在に至るまで、国籍の回復はあれど、チェコに復帰していない。もちろんハプスブルク帝国の一都市だったプラハから移動したリルケ共産党政権のチェコスロバキアからの亡命したクンデラでは大きく異なる訳だが。

 プラハという街はチェコ人(スラヴ)とドイツ人(ゲルマン)、プロテスタントカトリック、そしてユダヤ人と様々な文化や人種が交差する地点にあり、その中で類稀な文化都市が形成する中にあって、文化人のスタンスも様々だ。リルケクンデラとは異なり、当然プラハに残った文化人も多くいるし、そこには様々な眼差しが存在する。プラハに対する多種多様な眼差しが紹介されるこの本のおかげで、プラハという街がさらに魅力的に感じられるのだ。

 はあ、完全に朝になってしまったよ。やれやれ。とりあえず寝る。

 

 

 

コンパートメントNo.6

 京都の出町座で『コンパートメントNo.6』"Hytti nro 6/Compartment Number 6"を見てきた。日本では今年の2月に公開された映画で、もともと興味があったが、なんだかんだ結局5月になってしまった。京都のミニシアターは学生だと1000円で見られるので京都で見ようと思っていたというのもある。京都という街はあまり好きではなかったけど、やはり大学生として暮らしていると、大学生にとってはとても生活しやすい空間であると痛感する。

 「コンパートメントNo.6」はフィンランドのユホ・クオスマネンJuho Kuosmanen監督の第2作。2021カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞したらしい。巨匠カウリスマキKaurismäkiとも比べられるらしい、まあカウリスマキ監督あんま知らん(レニングラードカウボーイズは大好き)し、フィンランドだから安易にそう言ってるだけちゃうという気もするが。

 舞台は1990年代、ソ連崩壊直後のロシア。主人公ラウラ(Seidi Haarla)はフィンランドから留学し、モスクワの大学で考古学を学ぶ留学生。彼女はモスクワの恋人イリーナ(Dinara Drukarova)のもとで暮らしている。つまり彼女はレズビアンなのだが、冒頭のイリーナ家でのパーティはそのことを隠して友人と言っている。イリーナは文学の教授なので、パーティはハイソサエティーな感じであったが、ラウラに対する参加者の視線は冷たく(彼女は「下宿人」と呼ばれていた)、とても居心地悪そうであった。パーティの翌日、本当はイリーナとラウラはペトログリフという古代の岩面彫刻を見に行くため、北極圏のムルマンスクまで寝台列車で2人旅をする予定だったが、イリーナはいけなくなってしまった。あまり周囲に馴染めてないラウラからしたら、イリーナとの2に旅は相当楽しみだったに違いないし、1人では気乗りはしないがペトログリフを見るために旅をスタートする。

 モスクワから乗った寝台列車の同室(これがコンパートメントNo.6)の男は粗野で不器用なスキンヘッドのロシア人労働者、リョーハ(Yuri Borisov)。コイツがほんまに感じが悪くて最悪の出会い。まず食べ方が汚いし、ウォッカをがぶ飲みしている。フィンランド人のラウラに対して、いかにロシアがすごい国であるかを語ったあとフィンランド語を馬鹿にし、あげくに「お前は売春婦か?」とか聞いてくる。「愛してる」のフィンランド語を聞かれたラウラは「ハイスタ・ヴィットゥ」(英語でFxxx you)と教えて、せめてもの抵抗。リョーハは大喜び。何も知らずに「ハイスタ・ヴィットゥ」を連呼してる。こんな部屋にはもういられないと外に飛び出し、トイレに駆け込む。ちなみにトイレから外を眺めるシーンがポスターになってる。とてもロマンチックな車窓のシーンかと思いきや全然そんなことはない。そして部屋を変えてもらうように車掌に頼んでも、断られる。結局リョーハと2人きりで一晩車内で過ごしたあと、翌朝列車はサンクトペテルブルグに到着。もうモスクワに引き返そうと駅で降りて、公衆電話でイリーナに連絡を取るも、向こうはあまりこちらに構ってる余裕はない様子で、流石に引き返すわけにはいくまいと思い直し列車に戻る。

 しかし丸2日同じ空間にいると喋らざるを得なくなっていき、ラウラのリョーハに対する気持ちが少しずつ変化していく。不器用ながらもラウラに起こる不幸を慰めたり、トラブルで助けてくれたり。サンクトペテルブルクからムルマンスクまでの途中ペトロザボーツク駅で一晩停車する時、ラウラはリョーハに誘われて老婦人に会いに行く。この老婦人との酒盛りのシーンが1番良かった。リョーハは先に寝てしまい、2人で長い酒盛りが始まる。2人の会話は大盛り上がり。長旅中ずっとフラストレーションが溜まっていたラウラにとって、久々に解放される最高のひとときであった。「自分の心の声を信じること」と話す。この酒宴を機に、ラウラはとてもポジティブになり、リョーハとも打ち解けるようになっていった。

 最後、ムルマンスクに着いた後のペトログリフを見に行く大自然ののラストシーンは最高だった。あんな北極圏で吹雪いてるのによく雪遊びなんてできるな。さすがフィンランド人とロシア人。そしてラストのシーンがとても好き。寂しくてたまならないのに最後の最後でふふっと口元が緩むシーン。たまらなかった。

 

 ロードムービー(トレインムービー?)ではあるが、豊かな自然風景みたいなものは少ない。ロシアの北部ともなれば当然なのだが。むしろ電車内の緊迫感が伝わってきた。あの外国を旅している時の長距離移動中の独特の緊張感が懐かしかった。普段日本で暮らしていると、特に東京では、いい意味でも悪い意味でもみんな放っておいてくれる。知らん人と関わることはほとんどない。だけど、海外旅行に行くとそうはいかない。本当によく絡まれるし、盗人もいれば、勝手に入っちゃいけないところに貧しい子連れもいる。車掌はめちゃくちゃ無愛想だ。でも話せば優しくしてくれる。そんな緊張しつつも楽しい、あの旅路をまた味わいたい。

 

 これが制作されたのは2021年、ロシアがウクライナに侵攻する直前である。ウクライナ侵攻はコロナもやっと落ち着いてこういう旅もできるようになってくるのかなと思った矢先の出来事で、現在もそれは続く。ロシアの大地を走る寝台列車に乗るなんてことは、まだできそうにもない。リョーハは粗野で不条理だけど、すごいいいやつだし、大好きだ。一方で、プーチンが大統領になるのはこの舞台の少し後だけど、彼はずっとプーチンを支持している、そしてウクライナ侵攻も支持しているんだろうなとも思った。戦争を肯定してしまうこともある(勝手な妄想だが)。逆に状況とか運がよければ、レズビアンを打ち明けたフィンランド人の女性とも仲良くなれる。人ってそうなんだよな。だからどうということもないけど。

合格体験記、のようなもの

 昨年2022年の8月に公認会計士試験が終わってからもう半年以上、11月の合格発表からも4ヶ月以上経ってしまった。随分と時間が経ってしまったが、今更ながら合格体験記、のようなものを残しておく。

 あえて「のようなもの」とつけているのは一般的なそれとは大きく異なるからである。合格体験記というのは、働きながら、とか超短期で、とか成績上位で、とかそういう人たちによって、受験生のために書かれるものである。僕のように、何年もかかって、落ちまくって、受かった年もギリギリの偏差値で、突出した科目もなく、しかも親の脛を齧りながらずっと専念していて時間たっぷりあったような人の合格体験記などそもそも参考にはならんのだ。試験なんて、「うーん、このへんかな!」とか言って合格と不合格のラインが決められているだけなので、その周辺の人たちは本当にたまたま受かっていたり、たまたま落ちたりする。短答式試験なんてもうそれこそ運の要素はめちゃくちゃ大きい(短答の合格率をもっとあげて、その分論文の合格率を下げたほうが、試験としては健全だと思う)。会計士試験に限らずあらゆる試験で、「受かる人と落ちる人との根本的な違いは...これだぁ!1,2,3!!」みたいなことを言う人がいるけど、そういうこと言う人は後から結果論でカッコつけているだけで、そんな根本的な違いなんてものはない。1200人受かったとして、1200位と1201位の人にそんな根本的な差なんてあるはずがない。そこにあるのはほぼ運だけだ。だから受験生は運に左右されないレベルの実力をつけることを目指すべきだし、自分もそのつもりだった。でもそれはできなかった。だから僕のような人間が、こうやって勉強してました!とか言ったってあんまり参考にはならない。

 そういうわけで、特に科目ごとの勉強法などを語るつもりはない。というかそんなものは忘れたし、それが理路整然と語れるような、それこそ一般的な合格体験記を書けるような容量の良い人だったらこんなに苦戦しないだろう。僕はただ、この数年間かけて挑んできた試験を振り返りたくて書いてるだけだ。一応結構大変だったし、年数もかかっているし。ちゃんと腰を据えて総括せねばならないと思った。要は、ただの自己満足で、このブログは受験生に対しては何も寄与するものはないと思う。まあ反面教師としての役割はあるかな。これから色々書いてくけど、こんな怠惰なやつでも、最終的には(運が良ければ)受かることもあるんだなという気休めにはなるかもしれない。ただ、あくまで自己満足。

 くだらん前置きが長くなった。そろそろ本題に。この資格の存在を知った(それまでも公認会計士というワードは知っていたかもしれないが、せいぜいレジ打ちがめっちゃうまい人たち、くらいの認識だったと思う)のは大学3回生、2016年の夏である。大学休学中で、ふらふらしていた。7月に1ヶ月ポーランド行っていて、8月後半は中国のウイグルカザフスタンに行っていたのだが、その間数週間だけ日本にいて、ちょうどその時にこの資格の興味を持ち始めた。きっかけはよく覚えていないが、一応大学3回生で、周りはインターンとか行き始める頃だったので、将来について考えようと言うことで興味を持ったのだと思う。とりあえず国見健介『公認会計士の「お仕事」と「正体」がよ~くわかる本』を買った。2016年8月16日。ネットでこう言う時に正確な購入日がわかるのでべんり(この日付を特定したことで何がべんりになったのかはよくわからないが)。

 しかし本格的に勉強を始めるのは、2018年の年末のことになる。その間何をやっていたかは正直よく覚えていない。資格の興味を持って最初に読んだ本が国見さんのだったこともあって、とりあえずCPAの簿記3級と2級の講座はやっていたけど、本番の試験は、当日に寝坊したんだか、単に勉強不足で点が足らなかったのか覚えてないけど、一回も受からなかった。ちなみに2023年4月1日現在、簿記2級はおろか簿記3級も持っていない。一昨年、1回目の論文落ちた後(2021年11月)にも簿記1級を飛び級で受けたけどそれも落ちた。あと実は2017年の12月の短答をお試し受験している。あまり記憶はない。自己採点もしていないと思う。

 プルーストもびっくりというごちゃごちゃな時系列になってしまった。まだ簿記の勉強ちょっとやったけど全然あかんかったという話しかしてない。ということで時は2018年9月。その時すでに大学5回生だった(3回生の時に1年休学していたので当然である)が、会計士試験をちゃんと受けようと決心するきっかけとなるイベントが発生した。CPA梅田校の開校である。というのも物の管理がすこぶる苦手な自分にとって、もし勉強するならiPadだけで勉強しようということは決めていた。そのため、予備校選びはPDFテキストに唯一対応していたCPA一択だった。そして、当時住んでいた(今も住んでいるが)寮には友達がうじゃうじゃいて、ともかく人と喋るのが好きな僕にとってはまるで勉強できるような環境ではなかった。寮で勉強できるはずがない。よって通学一択だった。しかし関西にCPAはなかったので断念していた。まあ、断念するには弱すぎる理由で、つまるところ、覚悟がなかった。

 そういうわけで初代CPA梅田校生として晴れてCPAに入学(入塾?)し、2020年目標として勉強をスタートした。まあそこで決心してからなぜか1ヶ月ポーランド旅行(2018年11月)を挟んでいる。この意思決定はマジで意味不明だった。はよ勉強始めろや。ちなみに当時の梅田校は、開校と同時にCPAに入ってきた(おそらく)、塾長(たぶん)の監査論の松本先生が常に窓口にいて、ちょっとここわかんないんすよーとか言って気軽に聞けるような感じだった。売価還元法とか教わった記憶がある。

 まだほとんど何も勉強しておらず、数年かけてやっと予備校に通い始めたところだが、ちょっと予想以上に長くなってしまったので、ここで一旦区切る。続きはまた今度。

 

 

 

 

 

においの蒐集家

 マスク越しで呼吸をすると自分の臓物の茶色いにおいがするけど、マスクをとって思いっきり深呼吸をしてみると、薄紅色のいいにおいがする。流行り病のにおいかもしれない。春の到来のにおいかもしれない。

 

 小さいとき、あらゆるにおいが好きだった。祖父の家の線香のにおい。雨上がりに地面から漂う大地のにおい。母が塗っているマニキュアのにおい。ガソリンスタンドのにおい。一日ぶりに剥がした絆創膏のにおい。自分のほじった耳垢のにおい。くさいと思ったものでも何度も何度も嗅いでると、癖になってだんだん好きになっていく。嫌いが徐々に好きになる経験が楽しくて、においへの探究心は留まることを知らなかった。

 

 そしてそのにおいを「蒐集」していた。もちろん直接においを集めることはできない。画用紙ににおいを記録するのだ。においをことばで表現するほどの語彙力がなかった僕は、絵の具を使って絵にしていた。僕の好きなにおいは茶色っぽいものが多く、茶色の機微を表現するために試行錯誤した。自分の耳垢のにおいは、茶色と黄色を7:3の比率で混ぜて、それを父のタバコの吸い殻の上で作って表現した。我ながら傑作だと思った。両親はそれを不思議そうに見ていたけれど、特にそれを咎めることもなかった。

 

 一番好きだったにおいは、自分の血のにおいだった。赤褐色の血のにおい。自分の血を嗅ぐためなら、転ぶこともやぶさかではなかった。いつ転ぶかなとワクワクしながら、近所を走り回っていた。よく転ぶ子供だった。転ぶたびに、においを嗅いで満足していた。そしてその血を使って、画用紙に血のにおいの絵を描いていた。他のにおいと違って直接においを絵にできるところが気に入っていた。わざわざ絵の具を使う必要はないし、その血を画用紙に塗りたくればそれで済む。においを絵で表現することに対して、僕はロマンチストではなくただひたすら合理性を重視していた。できることなら絵ではなくにおいを直接集めたかった。気がつくと面倒くさい作業を必要とする他のにおいへの興味は薄れ、血を効率的に集めることだけに夢中になっていた。茶色だらけだった僕の画用紙はいつの間にか血だらけになっていった。

 

 小学校に入学したころになると、社会性の獲得と共に、自分の行為が道徳としてあまり良くないし、危険であるということを知った。何回か血で染められた画用紙が見つかって親からも叱られた。だんだん血のにおいへの執着も無くなり、においの画用紙もどこかへ行ってしまった。無味無臭のつまらない学校生活を送っていた。

 

 それから10年余りが経った高校2年生になった時、失われたあの頃の嗅覚が戻ってくる。昼休み、いつものように、屋上で1人パンを食べていたら、同級生の女子が屋上から落ちた。そして懐かしい深紅の強いにおいがした。屋上からでもわかる。血のにおいだ。一瞬で全てを思い出した。嬉しくて嬉しくてたまらなかった。生きる糧を見つけたと思った。ちゃんと集めないといけないと思った。蒐集するための数学のノートから取り出し、それを片手に彼女を追うように屋上から飛び降りた。

 

 高さが足りず、2人とも一命を取り留めた。今までに嗅いだとことのない美しく強いにおいだったが、それだけでは満足できなかった。彼女も同じだった。彼女も僕と同じように血のにおいの蒐集家だったのだ。彼女は満面の笑みでポケットから2本のカッターナイフを出し、1本を僕に渡した。まずは彼女が僕の腕に切り込みを入れる。カッターと腕の角度は70度くらい。ほとんど垂直に近い感覚だ。ゆっくりゆっくり、肘の裏から掌まで、スーッと切り込みを入れていく。痛みは感じなかった。何も言わず2人はお互いがお互いの身体をカッターナイフで傷付け合った。お互いの足、腹、顔、首、そして身体の全ての部分を切り裂きあった。全てを了解しあっていた。僕と彼女の血が調和した深紅のにおいは、最も美しいにおいだった。2人は憔悴する中、それを数学のノートに息絶えるまで塗りたくった。 

 

 この話はフィクションです。

アクチュアリーの勉強を始めた

 アクチュアリーの勉強を始めている。楽しい。「会計・経済・投資理論」(通称KKT)の中の投資理論を勉強している。公認会計士試験の経営学ファイナンスとかなり被っているが、例えばブラック・ショールズとかをガチでやるみたいな感じ。会計士試験だと、ゆーて解の公式とか微分とわからんくてええですよみたいなノリで、元来数学が好きだった自分としては歯がゆい気持ちがあったけど、その歯痒さを解消している。

 しかし、やっていることは難しいので、よく躓く。アクチュアリー試験で指定の教科書は持ってなくて、とりあえず市販の問題集みたいなやつをやっているが、まず分散の算定方法が2つあることに驚いた(最近は文系でも数IIBの範囲で統計はやるらしい。自分の時は数IIICでもやらんかったのに。あと数IIICという言い方もしないんだとか。知らんけど)。自分で証明してみると、とても納得して気持ちよかったのだが、分散は(2乗の平均)-(平均の2乗)でも算定できる。びっくり。なんでCPAは教えてくれなかったのだ。普通に会計士試験の経営学でも使える知識。そして、初っ端の効用関数でいきなりわからんくなった。わからないまま、なんとなく散歩しながら効用関数について考えていたら、なんで効用関数を2階微分して負になると限界効用が逓減するのかわかった。なんか数学者みたいだなと思った。レベルは恐ろしく低いけど。何はともあれ今は楽しくやっています。

2月12日

 母方の祖母が危篤であることを知ったのは、1月9日のことだった。祖母と2人暮らしの伯父からラインで連絡が来た。血液検査の結果が非常に悪く、いつ何があってもおかしくないと強い調子で言われたとのこと。最初は書いてある意味がよく分からなかった。深刻なニュースを急に文面で見ると、一瞬咀嚼できないことがある。中学から大学まで、浪人していた予備校時代も含めてずっと一緒だった親友の訃報を、彼のお姉さんからメールで連絡が来た時も、なぜか同じ苗字の違う人のことかと思った。祖母は89歳だったし、何があってもおかしくないと認識はしていたにもかかわらず、やはりすぐには受け入れられなかった。

 祖母は僕が生まれる前に離婚しており、すでに彼女の息子である伯父と2人暮らしだった。歩いて20分くらいの距離のところに住んでいたので、伯父から勉強を教わるという体で、小さい頃はよく1人で遊びに行ってた。祖母の家にあった漢和辞典が好きになって、読むことに没頭していた。1番画数の多い字を探したり、オリジナルの漢字を作ったりしたときはとても喜んでくれた。中学に上がると家に行くこともめっきり無くなり、年数回、誕生日やお正月にあって一緒にお祝いする時以外は会わなくなっていた。

 大学生になり僕は京都に行くことになったが、その頃から祖母は認知症を患っており、5年前くらいからまともに会話ができなくなっていた。僕が京大に受かった時は確かに喜んでいたと思う。伯父と共に京都に来て、高い焼肉をご馳走になったこともあった。しかし、その後に会った時は、僕が京都で暮らしていると言うことは忘れていた。何度説明しても、あらそうだったの、と言って終わるだけだった。その時はまだ会話は可能だったが、住む場所が遠くなって会う機会も減っていくうちに、たまに会うともう会話そのものが難しくなっていた。おそらく僕を孫だとも認識できなくなっていたと思う。そのことが辛かったし、会うのも億劫になってしまった。晩年は年1回くらいしか会えなかったし、なんだか申し訳ない気持ちでいっぱいであった。

 ただ、これは後から美化しようとしているに過ぎないのだが、今思えば、祖母は会うといつもニコニコしていたし、すぐいろんなところにうろちょろしていて元気だったし、楽しそうにも見えた。日本語のような何かをこちらに喋りかけて笑っていた。虚しいのだがそれが愛しいとも思える。

 最期に祖母と会ったのは1月20日の金曜日だった。最期に手を握った。とても辛そうだった。6日後に亡くなったらしい。会った直後に日本を発って2週間ベトナムにいた僕はそれを知らなかった。家族が気を遣って僕には知らせなかった。葬式も何も行けず、帰ってきたら全てが終わっていた。お見送りできなかった自責の念と共に、辛そうな姿をもう見たくなかったので、ホッとしてしまった気持ちがあった。そして時間を置いてから、この世界にもう祖母がいないという寂しさが襲ってきた。

 これがちょうど1週間前の出来事。この1週間はずっと心ここに在らずというかふわっと生きていた。しかしそれとは関係なく世界は動いていく。何事もなかったかのように。それが寂しいけれど、それが救いでもあった。少しずつ落ち着いてきた。生きていかねばならない。