blog non grata

人生どうでも飯田橋

悲しみの果て

一年前に亡くなった寮の後輩の話。


そろそろ後輩の一周忌が訪れる頃だ。行方不明になっていた期間が長く、正確な日にちが分からないが、恐らく1年は経っているのではないか。


生前は、偶然ではあったが2人で大学まで登校したりしたし 、何度も同じ飲み会に参加した。特別仲がいいわけではなかったけれど、同じ屋根の下に住んでいるから当然によく話す。ぼくの役職と同じ役職(すぐ下の代ではないが)に就いていたこともあって、仕事の話もよくしていたし、仲のいい後輩の1人だった。沖縄出身の子だったので、ウチナーグチのこともよく聞いていた。


そして彼は数学が得意で、僕も興味があったのもあり、彼にお願いして、結城浩の「数学ガールゲーデル不完全性定理」を一時期二人で読んでいた。というよりほとんど教えてもらっていた。最初の8割はすごく分かりやすいのに、最後の数ページ、実際に不完全性定理の章に入ると怒涛の定義の連続。僕らは降参した。彼も数学基礎論などはあまりやってないし、「いきなりこんなの言われても分かんないですよね笑」とあきれ顔だった。(実際には彼はもっと数学的なことを色々言っていたと思うけれど、ぼくにはそれさえも理解ができなかった。)


結局あの本を読了していない。久しぶりに彼のことを思い出して「僕の人生、永遠にこの本の言っていることがわからないままで良いのか?」と自問したら、それは耐え難くつらいことだと気づいた。もう一度読んでみようと思う。


積極的とまでは言わないまでも、なるべく彼の話を日頃からしたいと思っている。実際、こうやって文章にしたり、一月に一回くらいは彼の話をしていると思う。正解かは分からない。僕が彼の話題で誰かと喋っている時、最初に触れるのは大体僕だ。みんなわざわざ話したくないのかもしれない。彼のことに触れるべきではないのかもしれないし、或いはもっと喋った方がいいのかもしれない。


大学に入って大切な友人を亡くしたのは初めてではなかった。なぜか2年に一度くらいこういう訃報が飛び込んでくる。どうしようもなく悲しい。信じられなくてことばにならないし、涙も出ない。これが大人になることなんだな、という気がして、とても虚しくなる。それなら大人になりたくなんてない。それっぽい、いい話に昇華することはできない。ただ、悲しい。それだけ。


しかし僕には生活がある。生きていかなくちゃいけない。大きな悲しみはあるけど、いま僕の考えはとてもクリアだ。前に進もう。リュックサックに「数学ガールゲーデル不完全性定理」を入れて。