blog non grata

人生どうでも飯田橋

5月5日

 

 日記を書くのは新年以来だ。なんとなくSNSを見るのを意図的にやめてみようと思ったのだが、どうしても何かを言ってやりたいという気持ちは残るので、日記を更新するに至ったわけだ。

 今朝から両親が2泊3日で愛知へ旅行に行った。まるで子供のようだが、家で一人でいるとどうしてもワクワクしてしまう。一人暮らしを謳歌しようと、珍しく一日家に引きこもっていた。しかし結局は受験生という身分であることに変わりないので、勉強以外にすることはない。まあ一人でいることが重要なのであり、そこで何をするかは重要ではないので、勉強しただけでも十分謳歌したと言える。

 SNSを見る時間が浮いたので、代わりに勉強の合間の読書を解禁した。といっても長編小説は時間が溶けていくので、短編やエッセイに限定している。まずは昔からずっと積読していたサマンタ・シュウェブリンの『口の中の小鳥たち』を読み始めた。アルゼンチンはブエノスアイレス出身作家による奇妙で幻想的な短篇集、とのこと。アルゼンチン作家はボルヘスのしか読んだことないけど、彼のいくつかの作品もかなり「奇妙で幻想的な短篇集」だ。

 ところで訳者が見覚えある名前だなと思ったら、2回生の時に受けたスペイン語の先生だった。だからその時に買ったのかもしれない。授業は全部出た気がするけど、スペイン語のセンスが絶望的になかった(というか勉強しなかった)ので単位は落としたと思う。受験が終わったら再挑戦しようかな。スペイン語ならビジネスという意味でも需要はあるだろうし。

 

Venus

 年末年始は基本的にずっと家にいて、Netflixでいろいろと見たり、箱根駅伝を見たり、ただなんとなく過ごしていた。去年の年末は忘年会もなかった。特に実家にいる時は、両親に気も使うので、外で飲みに行って、ほろ酔いで帰ってくるみたいなことも気がひけるようになってきたのもある。実家にいるとフットワークが重くなって良くない。部屋で黙々と勉強する分にはその方がいいのかもしれないが。

 クイーンズ・ギャンビットというNetflixのドラマが面白かった。冷戦時代を舞台にチェスで活躍する女性の話。チェスのルールは良くわからないけど、面白くて一瞬で見終わってしまった。ヒカルの碁と同じで、ルールがわからなくても面白い。何か新しく興味を持つときって、初心者向けにもわかりやすいものを見るとかではなくて、交わされている言葉は何一つ理解できなくても、その人たちがすごい楽しそうに意味不明な言語を喋っている姿を見てるときだと思う。そういう観点が欠如しているものはとても多い気がする。興味を持てばこっちで勝手に調べる。情報を提供するのではなく、魅力を伝える—もっと言えば「伝える」という意識すらなくていい—ものが欲しい。情報伝達の効率性はどうでもいい。これはTEDとか昨今の短いYouTubeの悪口である。

 冷戦時代のアメリカ人女性が主人公で、周りは男ばかり。しかししょうもない恋愛話にはならない。相手の男性もみんな負けたら潔かった。嫌味を言うやつとか女のくせにみたいな言葉を残すやつは出てこない。特に1番の強敵であるラスボスのロシア人が堅物でいかにもという感じでかっこいい。ウォッカはコートの内ポケットに潜ませてる佇まい。

 チェスの大会のための渡航費などを援助する保護団体から、援助の引き換えに反共・反ソビエトの言葉を求められても頑なに固辞しているのも良かった。あえて政治的な描写は排しており、純粋なチェスを愛するもの同士、どのような国籍・性別であっても、チェスのもとではそんなものは関係がない、というのが美しかった。「スポーツ(音楽)に政治を持ち込むな」とよく言われるのはこういうことだろう。政治というのは、その言葉の定義上様々な対立を孕むものであるが(対立がなければそこに政治は存在しない)、走っている時、ボールを追いかけている時、演奏をしている時、チェスをしている時、少なくともそれに夢中になっている時だけは、ただそれに没頭していて、政治的対立を忘れられるのだ。もちろん終われば思い出すし、政治的主張はドシドシしていけばいい(反共も反・反共も政治的主張だし)と思うし、安易にノンポリに走るのを是としたくはないが、政治的でない瞬間があるというのが大事だと思う。最後の大会はモスクワで行われるのだが、モスクワのエンディングのシーンはそういう意味で非常に良かった。


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 主人公は孤児院時代から薬物とアルコール中毒者でもあるというのがこの作品のもう一つの大きなテーマであるが、彼女がもっとも酒を飲みラリっている頃の、Shocking BlueのVenusを聴きながら踊り狂っているシーンが一番好きだった。深夜、自分も部屋で一緒になって踊ってしまった。

 クリスマスの朝、ジャック・ベッケルの『穴』を観た。5人の囚人がひたすら穴を掘って脱獄を目指す、それだけの映画だ。脱獄方法もなんのひねりもない。音楽も全くなく、ただ5人の男たちが協力して毎晩少しずつ穴を掘る様子が淡々と描かれている。彼らは同じ目的のため、固い絆で結ばれ、見事な連携で穴を掘っていく。脱獄劇なのにスリルも全くない、至ってシンプルな映画だ。

 穴を掘り終え、脱獄を決行する朝、囚人の一人の告訴が取り下げられる。釈放されるのだ。もはや彼に取っては脱獄する意味は無くなった。しかし、釈放されたとしても、当然に穴を掘った跡は残る。穴によって自由を得るはずだったのに、穴によってかえって自由を束縛されてしまうことになった。苦悩の結果、ある決断を下すことになる。でも彼の判断は仕方がなかったのかもしれない。そういう映画だった。

時計台占拠

 時計台に登ることが、「京大の自由の象徴」になった時点で僕の興味は無くなっていた。時計台占拠はダダだと思っていた。くだらない政治運動とは離れた芸術運動だと思っていた。いや、芸術ですらない無意味な遊びだと思っていた。わざわざ時計台に登るということに意味など見出したくなかった。時計台を登る程度のことが政治的意味を帯びている現状を嘆く他ない。残念ながら、今や多くの意味を孕んだ政治運動になっている。芸術ではなく政治運動になっている時点で、運動それ自体は目的ではなく手段だ。政治運動であるならば現実社会にコミットし、現実を変えるものでなければ意味がない。芸術運動であればそれ自体の美しさや面白さが問われるだろうが、政治運動であればただ結果のみが求められる。失敗は許されない。「失敗したが美しい政治運動だった」というものは存在しない。いくら信念が正しくても、手段が徹底されていなければだめだ。そういった意味で、今回の時計台占拠は、パリコミューンや全共闘と同様に単なる失敗でしかなかった。ただの政治かぶれのサブカル風の運動と変わらない。「学生の間にも意識が芽生えたので一定の効果があった」という月並みの勝利総括は虚無だ。本気で、この運動が自由な京大へと戻すことに寄与すると思っているとしたら、それはあまりに視野狭窄的だ。そんなの先の選挙で野党共闘が良かったと言っているのと変わらない。じゃあどうすればいいのか。そんなものは分からない。どうせ何をやっても無駄であり、なるようにしかならないという諦念が僕にはある。時計台登っただけで処分されるし、吉田寮もなくなるし、喫煙所もなくなるし、保健診療所もなくなるし、マスクは雰囲気で強要されるし、自由なサークル活動も戻らない。日本はそういう国だし日本の大学はそういうところだ。京大も例外ではない。これだから政治はいやだ。政治なんかよりも、その諦めの奥にある、政治性が無くなった無意味な芸術、いや芸術とも呼べないような無意味な営みがいちばん良い。

洋食屋

 おそらく2年以上ぶりに京都の行きつけだった洋食屋に行った。店主は40代半ばくらいのスカートの澤部渡似の人で、接客業のひととは思えないほど愛想が悪い。店内はいつもインディーロックやプログレ、ジャズといった洒落てる音楽が流れる。Built To Spillが好きになったのもこの店で流れてるのを聴いたのがきっかけだ。置いてある本のセンスもいい。多くの小説や哲学書で溢れている。岩波文庫が並ぶが、それがただのファッションではないのは、カレル・チャペックの『ロボット』やミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』などのラインナップを見れば一目瞭然だ。

 今日がコロナ以降では初めてだった。おそらく店主は典型的か、あるいは非典型の左翼だと思っていたので、コロナ対策がかなり厳重であるか、ほとんどコロナ対策に無頓着であるか、のどちらかだと思ったが、前者だった。検温こそないものの、かなり頑丈なパーテーションがテーブルの真ん中に置かれている。

 他のお客はいなかった。店主は相変わらず無愛想で、店内に2人ぼっちだと流石に緊張する。お冷やをテーブルに置いた時の水が撥ねて僕の靴はびしょ濡れになった。店内は、Stella Donnellyの寂しげな声以外ほとんど無音で、緊張感がより高まっていった。

 いつも通り「今日のメニュー」を注文した。今日は目玉焼きハンバーグだった。相変わらずべらぼうに美味しい。美味しくてごはんが進む上に、緊張も相まって一瞬で平らげてしまった。数学の試験中に先生に解いている過程を覗かれているような、ばつの悪い感じがある。そして最後は自家製のプリン。これまた相変わらず格別の味だ。久々の洋食屋への「単騎遠征」は緊張したけれどかなり満足であった。

 

クレークイーン

 休憩がてらWOWOWオンデマンドで全仏オープンを見ていた。テニスはよくわからなくて、やたらと東欧の選手が多いということと、全仏はクレーコートで、ナダルがめちゃくちゃ強いということくらいしか知らないけど、かなり面白かった。さっきまで見ていたのは、女子ダブルスのシエ&メルテンスペアとシフィオンテク&マテック=サンズペアの試合。女子ダブルスの試合をちゃんと見たのは初めてだと思う。

 お互い1セットずつ取った最終セット。シエ&メルテンスが5-1でリードしてから、シフィオンテクとマテック=サンズが6ゲーム連取して逆転。道中で7回もマッチポイントまで追い込まれたのにそこから全てセーブ。それまでは第一シードでもあるシエとメルテンスの試合巧者ぶりが際立っていたのに(素人なので雰囲気で言ってる)、急に違う試合になった。メイクが派手なアメリカ人のベテラン、マテック=サンズ(35)が感情を爆発させる一方で、素朴な雰囲気の若いポーランド人のシフィオンテク(20)のポーカーフェイスぶりも好対照で良い。サーブのたびにシフィオンテクがサンズの方に駆け寄って指示を受けにいく姿がかわいくて面白かった(そういうもんなんだろうけど)。しかしこのシフィオンテクという選手は本当に動きがダイナミックでパワーがすごいので、見ていてとても楽しい。1人男子選手が混じってるみたいな感じだった。

 イガ・シフィオンテク。調べたら、昨年の全仏のシングルスで優勝していて、今回のシングルスでも優勝候補の最右翼らしい。前回シングルスで優勝した時はダブルスでもベスト4。どちらもノーシードから。ほんまかいな。一大会に何試合するんや。よく分からないけど、同じ大会のシングルスとダブルスどっちも出る人っているんだな。女子はよくあるのかな。しかしタフすぎないか。マッケンローみたいなもん?ウィリアムズ姉妹もそうだっけ。とまれとても面白かった。


束の間

 大きな試験と大きな試験の狭間の時期。次の試験もあと80日近くしかないわけで、本当に束の間の休みと言った感じであるが、というか本来は休むべきでは無いのかもしれないが、ここ1週間は好きに暮らしていた。といってもほとんど寝てるだけだったけど。

 土曜日に渋谷でOGRE YOU ASSHOLEのライブを見てきた。バンドセットのライブは2019年の12月半ばに梅田シャングリラでStella Donnelly、Homecomings × カネコアヤノと1日おきに2回見たとき以来、実に1年半ぶり。思えば昨年3月のオウガとVIDEOTAPEMUSICのライブが中止になったのを皮切りに、Pixies、カネコアヤノ、Big Thiefと次々とライブがキャンセルになったのだった。

 ライブを直接見られるということそれ自体があまりに嬉しかった。ただただ90分余りの楽しく美しい時間が流れていった気がする。これはいつもそうだけど、ひたすら恍惚の境地というような感じだった。最後の「ユーレイ」は、はじめはなんの曲かすら分からず、ただの轟音シューゲイザーと化していて最高だったし、アンコールでサブステージから登場して演奏中にメンバーが1人ずつメインステージに戻ってくるという遊び心のある謎演出も面白かった。1stアルバム発売から15周年おめでとう。

 月並みだけどライブは良いものだと心の底から思った。今度はビールが飲めて、マスクが外せるといいな。

 

 

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