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人生どうでも飯田橋

自由はないのか

 2020年は、新型コロナウイルスによるエピデミックのもと世界各地で移動制限が行われ、「移動の自由」や「集会の自由」が失われてしまった。これらは生命の安全が保障される限りに認められるというような条件付きのものではない。本来不可侵であるはずの当然の権利を、緊急事態であるという理由で当然のように明け渡してしまった。一度でも特例を認めてしまえば、後は言葉遊びだ。体制側から監視社会を強化することは非常に容易になる。

 この疑問はほとんどの人たちには受け入れられないのかもしれないが、そもそも僕は「命より大切なものは無いのか」という疑問を持っている。

 僕は生きていることの価値を、高々数十年の身体の保持にはあまり感じない。自由を失って、死んだように生きるのでは意味がないし、死ぬこと以上に意思が果たされないことに対して怖さを感じる。アルツハイマーになって賭博ができなくなったため安楽死を選んだ赤木しげるのような、合理性を超えたところに価値を置き、それを優先する姿勢に共感する。

 ここまで言ってしまうと大げさで過激かもしれないが、普段意識をしないだけで、生きているということは、多かれ少なかれリスクが伴う。家を出なければ、交通事故に遭うこともないし、様々なトラブルに巻き込まれる可能性も下がる。コロナの以前から、我々は常に様々なウイルスの危険にさらされていたし、飛沫を交換しながら生活してきた。これもZoomの会議ならそんな心配はない。しかし、それでも人と人は、直接会って言葉を交わしたり、高速道路で遠くへ出かけたりしていた。今までリスクを認識しながらも、運悪く巻き込まれないことを祈りながら、人生をおくってきた。そうした人生をおくる自由は、如何なる状況であっても、保障されなければならない。例外状態だからといって簡単に放棄していいものではない。

 一律に自粛を求める声は、「人にはそれぞれ事情がある」という発想が欠けていた。リモートワーク推奨・オンライン万歳、というような、ホワイトカラーの人たちは忘れているのかもしれないが、Amazonの荷物もウーバーイーツも生身の人間が運んでいる。末期癌患者が最期にみんなで花見をしたいという希望も絶たれた。コロナに感染して亡くなった場合は、火葬場で最期の別れを言うことすら許されない。ちょっと我慢すれば元の生活が戻ってくる人はいるだろうが、そのちょっとの我慢をする時間のない人たちがたくさんいる。こうした、ひとりひとりそれぞれ事情が違うということも忘れて、「リスクがあるから」という理由で簡単に受け入れられてしまうことが信じられなかった。

 3月、日本でも緊急事態宣言の機運が高まってくると、奇妙な現象が起こった。緊急事態宣言の発令を躊躇する安倍政権に対し、リベラル側の野党が、早く緊急事態宣言を出すべきであるという批判を展開し始めたのだ。要は「お前の監視社会はなっとらん、もっとちゃんとやれ」という批判だ。リベラルは自由を捨てて、健康を管理されることを求めたのだ。そして多くのリベラル派の知識人もそれに同調した。

 彼らは「自粛と補償はセットだろ」とインターネット上で言うことに終始し(しかも、「セットだろ」といいながらも補償もないうちから勝手に自粛を始めてしまった)、自由には無頓着だった。自粛すること自体には無批判で、自粛してくださいと言われたら自粛した。そうではなく、例えこんな状況でも、何をするのも自由なのだ、と主張しなければならなかった。医学的な合理性を絶対的なものとみなし、人間の権利を制限しようとする動きに反発しなければならなかった。

 2020年11月22日現在、日本では感染が再び拡大しており、人々に外食や旅行を促すGoToキャンペーンが一時中断するようだ。このキャンペーンが感染を拡大させているのは確かだと思う。人々が移動を減らせば、新型コロナウイルスによる死者は減る。しかし、もしやらなかったらやらなかったで、他の人たちが死ぬ。つまり生き延びることのみに過剰に固執すれば、「生きる」というのはただの「殺し合い」になってしまい、さらなる分断を生むことになるだろう。